【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第70話-梅雨が来た〜胸騒ぎの放課後

 貴志が登校すると、1年1組の教室にはすでに裕が待っていた。
「放課後、自習するんだろ?オレも付き合うよ」
 今日貴志は坂木紗霧に告白するつもりでいる。裕には昨夜の間にそう告げていた。
 まさか告白に立ち会おうというわけでもあるまいに…親友の意図が掴めずに貴志は困惑していた。
「貴志が思ってる以上に、女子たちがお前の想い人を勘ぐってるんだ。
 好意が攻撃に変わると怖いから、あからさまに坂木さんを待つような行動は避けたほうがいい」
 裕の顔にはいつもの笑顔がない。今も周りの気配に気を配りながら、小声で話している。
「教室からみんながいなくなるまで、オレがダミーで一緒に残る」
 裕はそれだけ言うといつもの笑顔に戻り、下世話な下ネタを連発し始めた。
 すぐに女子たちが登校し、教室に集まり始める。裕の下ネタは教室中から大ひんしゅくを買っていたが、人払いには丁度いい。
 貴志は裕の下ネタに適当に相槌を打ちながら、心では親友の計らいに感謝していた。

「貴志〜、やっぱり運動部入ろうぜ。
 運動女子のキュッとしたお尻、目の前で見たいじゃん!」
 紗霧が教室に入って最初に聞いたのは、裕のそんな下世話なセリフだった。
 最初に貴志の名前が聞こえたから、セリフ全部逃さずに聞いてしまう。
 じと…。紗霧の座った瞳が二人を睨めつけた。固まる貴志と慌てる裕。
 そう言えば入学以来初めてじゃないだろうか。隣の席の貴志が、女子たちに囲まれていないのは。
 登校してきて、授業を受けるまでに貴志の顔が見れるのは。
 裕と目が合った。裕は紗霧にウインクすると、周りに気づかれない程度にさりげなく、貴志を、親指で指した。
 そうか山村くんは人払いをしてくれてたんだ。山村裕はわずかに赤らむ紗霧の顔に満足そうに頷いて、自分の席に戻っていった。
 しかし僅かな心のひっかかり。
「北村くんって、お尻好きなの?」
 疑問は心の中に留まらず、口から飛び出てしまった。

 貴志は激しく咳き込むと、机に突っ伏してふるふると肩を震わせた。
 好きな人に、自分が好きな異性の体のパーツなど答えられるわけがなかろう…。
 遠くから裕が代わりに返事する。
「お尻が嫌いな男子なんて見たことありません。それから、貴志も男子ですよ〜!」
 叫ぶなよ。そして勝手に返事をしないでくれ。
 貴志はため息をついて、恐る恐る顔を上げて想い人の表情を確認した。引かれていたらどうしよう。
 しかしそれは杞憂に終わる。紗霧は貴志を見て笑っていたのだった。
「そっか、王子様も男の子なんだね〜」
 周りが勝手に作り上げた、貴志の王子様像。それを山村裕は壊そうとしている。
 過剰な人気がクラスでの貴志を偶像化していた。すでにみんな、貴志を「王子様」としか見ていない。誰も貴志を「北村貴志」とは見ていないのだった。
 それって本当に好きだって言えるの?
 北村くんもきっと、自分自身のあるべき姿に戻りたいって思ってる。
 貴志が周りに幻滅されていけば、彼は素に戻ることができる。
 貴志が普通の中学生に戻っていくのが、紗霧には嬉しかった。それに…。
「運動は苦手だけど、お尻は鍛えてて良かったかも」
 貴志に聞こえたらお互いに即死しそうな独り言を、紗霧は口の中だけで囁いた。

 貴志は落ち着かない気持ちを抱えながらも、授業はそつなくこなしていた。
 紗霧はと言えば、教師の言葉を書き取りする手は止まらないものの、思考は完全に停止していた。
 貴志に伝える気持ち。その言葉選び。
 ああ…私って国語が得意だなんて、とんだ勘違いだ。こうも日本語って難しいものなの?
 国語教師がウケ狙いで、すでに使い古された夏目漱石の逸話を話している。
 そうか…「月がキレイですね」と言えば良いのか!
 音を立てないように両手を打ち合わせると、紗霧はすぐに問題点にたどりついた。
 放課後はまだ月なんて出てないじゃない。
 漱石先生…もっと当てになる翻訳をしてください。
 目の端に少し涙が溜まる。気持ちが溢れて、視線を貴志の方に向けると、貴志も静かにうなだれていた。
 まさか北村くんも同じことで落ち込んでたり…するわけないよね。
 膨らんだ期待を紗霧は自分で抑え込んだ。
 なぜだろう。抑え込んだだけ、目に涙が。
 貴志が不意にこちらを向いた。目が合うと、貴志は驚いたような顔を見せた。
 涙に気づかれたのかな?紗霧は慌ててあくびをしたような素振りを見せる。
 貴志は微笑むと、ペパーミントのタブレットを紗霧に手渡した。
 一粒口に含んで深呼吸すると、清涼感が口内を満たしていく。そして思いっきりため息をついた。
 胸の奥の、今すぐにでも吐き出してしまいたい気持ちの代わりに。

 放課後が迫る。教科が変わるたびに貴志は鼓動がシフトアップしていくのを感じていた。
 
 昼休み。紗霧は相変わらず中庭で読書をしている。放課後に思いを馳せながら。
 覚悟を決めないと。想いを伝える覚悟を。
 そこで気がついてしまった。
 個別指導の終わりに貴志と話すことが多かったのは、彼が林間学校の班長業務を残って片付けていたからだ。
 個別指導を終えると、ほとんどの生徒はすでに帰宅している。
 この前は山村と勉強して遅くなったそうだが、今日も残っていてくれるとは限らない。
 ああ…なんてこと。
 紗霧は読書をしながら百面相している。そもそも緊張からの落胆で心が乱れて、本の内容など頭に入ってこない。
 そこに山村裕が声をかけてきた。
「食後のトイレついでに、坂木さんの顔を見に来たんだ」
 そう言って裕は紗霧の座っているベンチの隣に腰掛けた。
 紗霧は端によって裕のスペースを空けてくれる。いや、距離を、取られた。寂しさが裕の胸に刺さった。
 しかし今紗霧に会いに来たのは、自分のためじゃない。裕は完璧にいつもの笑顔を作り上げた。
「今日も放課後、貴志に勉強を教えてもらうんだ」
 おそらくこれだけ言えば、坂木さんには伝わるだろう。
 貴志から伝わってくる緊張感。今日貴志は紗霧に告白しようとしている。
 それと同じ種類の緊張感を紗霧も今朝から発していた。きっと坂木紗霧も、今日を勝負の日と思っているはずだった。
 ちらりと紗霧の横顔を覗き見る。髪にはいつもにもましてツヤがあり、日焼け止めのムラも感じない。
 夏服の脇にも汗じみはなく、外見はこれ以上ないくらいに整えられていた。
 そして…めちゃくちゃかわいい。
「北村くんが山村くんの事すごく頼りにしてる理由、わかった気がするよ」
 貴志の王子様脱却宣言に合わせた、人払い。林間学校での裏方仕事。北村くんの周りがうるさすぎて、煙たがっていた時に、彼の謝罪の手紙を届けてくれたのも彼だった。
 しかも貴志の評判を落とさないように、自分を落とすような言動を繰り返して。
 そして今も、こうして放課後に貴志が居残り勉強をしている事を教えに来てくれた。
 あえて全部言わないのは、貴志の想い人をまるで犯人を探すように女子たちが勘ぐっているからだろう。
「ありがとう」
 裕の深い配慮に。
「ありがとうね」
 裕が親友として、貴志の傍にいてくれることに。
「本当に、ありがとう」
 紗霧は心からの笑顔を裕に向けた。その笑顔から伝わるのは信頼。欲しかった形ではないけれど、初恋の人から向けられた特別な感情に、裕は少しだけ報われたような気がしていた。

 放課後。今日は教室から人が捌けるのに時間がかかった。やはり貴志の動向が気になるのだろう。
「そう言えば、貴志〜運動女子のお尻の話はどうなった?」
 裕は空中でヒップラインをなぞるような仕草をした。それに一人の女子が全身総毛立ち、悲鳴を上げて教室を出ていった。
 周りの女子もそれに続く。
 どうやら貴志をアイドル的に扱っていた、リーダー格の女子らしい。彼女曰く、「山村のなぞった形、私の形そのものなんだけど!」
 廊下から響いてきた声に、裕は高らかに笑う。確かに若干意識はしたけれど、そもそもヒップラインなんて空中に描けば誰がやっても同じような形になるだろう。
「自意識過剰なんだよ。自分しか見えてないんだ。
 アイツごときに貴志がなびくかよ」
 廊下が静かになった頃を見計らって、裕はトイレに向かう。そして教室の周りに誰もいないこと、下駄箱の靴がある程度入れ替わっている事を確認する。
 裕は荷物をまとめに教室に戻ると、貴志に声をかけた。
「そう何回もチャンスは作れないぞ。
 怖いだろうけど、ヘタれるんじゃないぞ」
 そう言って教室を後にする。
 ああ…明日はセクハラで呼び出し受けるかな〜。とほほ。

 教室に一人残された貴志は、数学の問題集を開いた。気持ちが落ち着かない時は、数式に集中して邪念を取り払う。
 座禅のような心境で、貴志はひたすらに問題を解き続けた。

 どれくらい時が過ぎただろう。教室の扉が開かれて、心地よい気配の持ち主が現れた。
 坂木紗霧が教室に戻ってきたのだ。

 二人の鼓動が一気に加速した。

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