【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第66話-梅雨が来た〜理美

 貴志が紗霧への気持ちを忘れようとしている。それは理美にとって衝撃的な事実だった。
 それが瑞穂への追い風になると、山村裕は言う。理美は不思議そうに首を傾げた。

 目は裕に向けたまま手元のポテトをまさぐるものの、Lサイズのポテトはすでに食べきられており、虚しく宙を切るばかりだ。
 会話が途切れるまで追加を買いには行けないだろう。理美の手が未練を隠せず、ポテトの紙パックをかりかりと引っ掻いた。
 それは断ち切ったはずの貴志への想いを手繰り寄せようとしているようにも見えた。
 理美は冷めてしまったコーヒーをあおるように飲み込んだ。苦い。苦くて酸味もあって、後味が悪い。
「冷めたコーヒーって不味いよね。オレもコーラぬるくて、めっちゃ不味い」
 裕が舌を出して笑うと、理美は静かに頷いた。
「冷めてしまった気持ちを蒸し返しても不味いだけだよ」
 ボソっと呟かれた裕の一言に、理美は息を飲んだ。山村裕は人の心を読んでいるように物を言う。
「高島さんが貴志に感じてる気持ちも、オレが瑞穂に感じてる気持ちも似たようなものだよ」
 そう言って自分で不味いと言ったぬるいコーラーを口に含む。
「やっぱ不味いや」
 再び舌を出して笑う裕に、理美は顔を綻ばせた。
「気持ちほど不安定に揺れるものはないよね。なのに忘れようとしても中々消えてくれないんだ」
 紙コップの底溜まりを見つめる裕の瞳に憂いの色が浮かぶ。裕の言葉は「瑞穂が好きだ」と苦々しく吐き出しているように聞こえた。
 理美とて貴志への想いを忘れてしまったわけではない。ただ自分を想ってくれている人に目を向けられるようになっただけ。
 貴志の弟である悟志を恋人として、まっすぐに気持ちを受け止める事ができるようになっても、それでも心は揺れる。
「不安定ならあっさり消えてくれれば楽なのに。オレは瑞穂を、高島さんは貴志を忘れられない」
 裕は片目を閉じて理美をビシッと指さした。本人はキメ顔のつもりらしい。
 理美は感情を丸裸にされたみたいで落ち着かなかった。キメ顔にリアクションできるほどの余裕はない。
 裕は真顔に戻ると、再び底溜まりと化したコーラに視線を落とした。
「貴志も同じだよ。坂木さんを忘れるなんて、そんなすぐにできることじゃない」
 そう言って立ち上がると、裕は自販機に向かった。コーラのおかわりを買うと、テーブルに残った2人に「何か飲むか?」とジェスチャーで伝える。
 理美は額の前でバツ印を作ると、ファーストフード店に向かった。
 Lサイズのポテトと紅茶をトレイに乗せて戻って来る。

 理美が戻るのを待って、裕はコーラを開封した。
 ブシュっと軽快な音を立てて開かれたコーラの香りが裕の鼻腔を刺激した。
 そう言えばオレって「恋バナ」の時はいつもコーラだな。まだ苦い気持ちでしか誰かを好きになったことのないオレには、甘いコーラが丁度いい。
 ペットボトルを口に含むと、強炭酸の刺激が舌を刺した。甘さは刺激の奥に隠れて感じることが出来ない。
 本来甘いはずの恋の、甘いところにはたどり着けずに終わっている裕の心情そのものの味わいだった。

 裕は親友の姿を2年前に遡らせながら振り返る。「あの事件」から貴志が作り上げてきた今の姿は、紗霧への愛情が生み出したものだ。
「坂木さんがいなくなった喪失感と後悔が貴志の仮面を支えているんだ」
 周りへの激しい憎悪も、冷笑もすべて貴志が紗霧を想うがゆえのもの。
「だから坂木さんを忘れようとしている今、アイツを支えるものは何も無い」
 裕はキッパリと断言した。
 隼人は不満そうに口を挟む。
「いくら何でも大げさじゃないか?
 将来医者になりたい、成績優秀な貴志が?
 自転車で富士山登ろうとか思ってる、フィジカルお化けの貴志が?
 何も無いってことはないだろう?」
 それじゃあ俺たちの友情はあいつの支えにはならないってことなのか?
 隼人はかなりの剣幕で裕に食ってかかる。
 貴志から感じた友情は隼人にとって大きな支えだった。貴志が自分を支えとしてくれないなら、この友情は錯覚だとでも言うのか?

「落ち着けよ、声でかいぞ」
 どうどうと、裕は隼人を手で制すると再び落ち着くんだと静かに繰り返した。
「貴志ってあんまり人に頼らないだろ?あれ、昔はもっと酷かったんだ」
 当時小学生だった貴志と悟志を残して父は単身赴任してしまった。仕事で忙しい母を支えるために、貴志は食事の準備をするようになり、弟の面倒も進んでみるようになった。
 如月中学校受験のために、元々一通りの家事はできるように教育されていたから、貴志はあっという間に家庭を支える側になってしまった。
 忙しい母に負担をかけないように、甘えないように。そして中学に入った貴志は、できることは全て自分でやってしまうようになっていた。自分の負担も考えずに…。
「林間学校の班長会議で一緒だった時、貴志くんはずっと教室で残業してたよ」
 理美は2年前を逡巡し、眩しそうに目を細めていた。しっかりした頼りがいのある貴志くん。だけどあれは周りに心配をかけないように、そう振る舞っていただけなのだと、今の貴志を見てようやく気がついた。
 本当は誰よりも支えを必要としていたのだろう。
「そんな貴志くんが残業しながら、楽しみにしていたことがあったんだ」
 理美にとってそれは辛い思い出だった。残業中の貴志に、班長業務の伝達と称して会いに行ったことがある。
 そこで貴志と坂木紗霧との談笑を見てしまったのだ。
「坂木さんと話す貴志くんは、山村くんと話してる時みたいに楽しそうだった」
 それに…。
「人にまったく頼らない貴志くんが、坂木さんに資料の確認をお願いしてたのを見たんだ」
 貴志が自分から人に頼る所をみたのは初めてだった。
「林間学校が終わっても、貴志くんが嬉しそうに坂木さんに勉強を教えてもらってる姿を見て…。
 ああ、私の初恋は叶わなくなったんだ…って気づいたんだ」
 理美はストレートのまま紅茶を口に含んだ。柔らかな苦みが初恋の苦みを洗い流してくれる。
「貴志くんは、坂木さんに甘えられる事が支えになってたんだと思う」
 貴志が紗霧を頼る姿を見て、理美は「自分じゃダメなんだ」と思い知らされた。
「家庭を支えなきゃいけない。でも貴志くんはまだ中学生。自分だって甘えたいんだよ。
 周りはきゃあきゃあ持ち上げてくれるから頼れない。
 親友だって男同士の照れがあって、支え合うって言っても、完全には寄りかかれない」
 頼られる存在になれなかった悔しさ。それは理美の胸に深く刻まれた傷だった。未だに彼に心が揺れるのは、今でも貴志に頼られたいという想いだけは残っているから。
「初めて貴志くんに、声を出して頼ってほしいって言ったのが、坂木さんなんだよ」
 フライドポテトを鷲掴みにして理美は口に放り込んだ。一気に何本食べているのかもわからないくらい、口いっぱいに。
 ただ喉につっかえた何かを、ポテトと一緒に飲み込んでしまいたかった。目尻に涙が溜まっているのが自分でもわかる。
 悔しい…受入れたはずなのに、まだ貴志くんの事を考えると涙が出てくる。

「そんなわけだよ。オレたちが貴志の支えになれないわけじゃない。
 ただ坂木さんは特別な存在だったんだ」
 裕が隼人に向き直ると、隼人も裕の顔にまっすぐに向き直った。
 今の高島は見ちゃいけない。喉に引っかかった想いはもう、飲み込むしかないのだから。
「それで?貴志にとって坂木がどれだけ大事だったのかは良いんだけど、坂木を忘れることが何で福原の追い風になるんだよ」
 隼人の眉間には深くしわが刻まれていた。
「気づいてないのか?」
 裕が首を傾げると、ポテトの塊を飲み込んだ理美がぷはっと声を上げた。理美も首を傾げている。
「今の貴志に、無条件の信頼を向ける相手って誰がいる?」
 裕と理美と隼人。後は家族。そして瑞穂。
「その中で貴志の恋愛対象から完全に外れないのは一人だけなんだ」
 裕の言葉に理美は頷いた。
「好きな人を忘れるときってね、心を削り取るような時間を過ごすの。
 その人を忘れようとするたびに、心に隙間ができていって…削り取った心が泣くんだよ。
 寒いよ。痛いよって」
 大切な人を失った心の隙間は埋まらない。例えどんな手を使っても、埋まることはない。
「瑞穂ちゃんが貴志くんの心の隙間に入り込むことができたら…。それで貴志くんが痛みを忘れる事ができたら…」
 ひょっとしたら瑞穂は貴志の支えになれるのかも知れない。
 貴志にとって紗霧の存在は途方もなく大きい。だからこそ、紗霧のいない隙間も途方もなく大きいはずだった。
「なるほどね。山村くんが一歩引いた理由がわかったよ。
 私も瑞穂ちゃんの恋を応援することにする」
 瑞穂の幸せを一番に考える。それは裕の「誓い」らしい。そしてそれが親友の心を埋める唯一の方法かも知れない。
 理美は静かに頷いた。
「将来義理のお兄さんになるかも知れない人だからね、ちゃんと立ち直ってもらわないと」
 彼の隙間を埋める人として、選ばれることのなかった一抹の寂しさを、理美は笑顔でごまかした。

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