【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第79話-やまない雨の季節〜紗霧の雨③
付き合い始めた恋人の家の前。そのボタンを押せば、玄関から大好きな彼が顔を出してくれる。1秒でも早く会いたい人が。
呼び鈴を押す指は緊張でとても重かった。だけど実際に押してしまうと、ボタンは意外にも軽く感じた。
呼び鈴を合図に走り回る音が家の中から聞こえる。続いて鍵を開く音が響いた。
走るほど会いたいと思ってくれてたんだ。
紗霧の鼓動が早くなる。
玄関のドアが開いて、その向こうから恋人が顔を出してくれる。
貴志が…。
しかし開かれた扉の向こうから顔を出したのは貴志ではなかったのだ。
女性である。目鼻立ちの整った、とても美しい女性がそこに立っていた。若すぎる風貌に、それが貴志の母だと気づくまで、紗霧は少しばかりの時間を要してしまった。
挨拶が遅れた!紗霧は慌てて居住まいを正す。正すほど乱れた格好ではなかったけれど。
「は、は、はじめまして!」
緊張感で声が上ずっている。
「北村くんと、同級生の…じゃなくて。
お、お、おおおお付き合いさせていただいてます、坂木紗霧です。 本日はお休みのところをお邪魔してしまい、大変失礼致します」
お付き合いのところだけ上ずったものの、中学生にしては丁寧すぎる挨拶をした紗霧に、貴志の母はニッコリと微笑んだ。
親子だなあ。まだ一言も発していない相手なのに、その笑顔を見ると不思議と安心する。
貴志が持つ安心感の正体がわかったような気がした。
「初めまして貴志の母です」
凛とした声で返す貴志の母に、紗霧はペコリと再び頭を下げた。
優しい笑顔だけど、よく通る厳しそうな声だな。再び込み上げてくる緊張感。
紗霧は手に持った紙袋の存在を思い出すと、おずおずとそれを差し出した。
「お口に合うかわかりませんが、良かったら召し上がってください」
その紙袋を受け取ると、貴志の母は表情と声色を一変させて絶叫した。
「ええ!すっごい、めっちゃ嬉しい!
これ、私の好み、ど真ん中なのよお!
貴志に聞いた?」
どうやらお気に召したらしい。紗霧は胸をなでおろすと、背筋を伸ばして静かに答えた。
「いいえ。最初の手土産は絶対に自分で選びたかったので」
貴志の普段の言葉から、断片的にイメージした人物像をもとに、気に入ってもらえそうなものを考えた。
だって、今後義理の親子になるかも知れない人だもの。好みくらいは嗅ぎ分けられるようになっておきたい。
「私、ここのお菓子すっごい好きなのよぉ。
私たち、気が合いそうだね…紗霧ちゃん」
凛としたクールビューティーはどこへやら、貴志の母は飼いならされた猫のような声に変貌していた。加えてその場でスキップしている。柔らかそうな髪が併せて踊る。
あまりの変わりように紗霧は呆気に取られてしまった。
紗霧…ちゃん?
貴志よりも先に名前で呼ばれてしまったことに、紗霧は戸惑いながらも、胸に温かいものがこみ上げてきた。
緊張の挨拶が思った以上に好感触だった事に、紗霧が胸を撫で下ろし始めたその時。
どどどどど。
ものすごい足音が響いた。玄関に現れたのはエプロン姿の貴志だった。肩で息をしている。
そんなに広い家なのかな?
「ごめん、坂木さん!母さんがなにか失礼をしなかった?
俺が手を離せないうちに勝手に出ちゃって」
慌てた表情の貴志だが、母親に向き直ると厳しい顔を見せた。
「呼び鈴には通話で確認取らないと、危ないじゃないか。
それに最初に母さんが出たら、坂木さんが緊張しちゃうだろ」
お父さん…なの?貴志の態度を見ていると、どちらが親なのか分からなくなる。
貴志の大人っぽさと、母親の若さが相まって、二人が同世代にすら見えてしまう。
しかし突然シャキッとした顔をした母親は、やはり貴志の親なんだな…と思わせる厳しい顔つきを見せていた。貴志に顔を目一杯近づけると、凛とした声で息子を問い詰めるのだった。
「あんた世界一愛おしい恋人を、苗字で呼ぶなんて、どういうつもり?
私はそんな風に育てた覚えはないし、父さんに報告したらグーパンチものの失態よ!
今すぐ、ここで、ちゃんと名前で呼ばないと、親子の縁を切るわよ!」
人差し指を貴志に突きつけて詰め寄る母に、貴志は仰け反りながら冷や汗を流していた。
そんなに?紗霧は母親の剣幕に少し引いてしまったものの、最高のアシストをしてもらったことに心の底で感謝した。
ずぅっと望んでいたことが叶うのかも知れない。照れ屋の貴志から名前で呼んでもらえるかも知れない。
くる…。母親が紗霧を振り返る。厳しい表情はそのままだ。
「紗霧ちゃんもだよ。
ここには男の子が二人もいるんだから、北村くんじゃ、どっちの北村くんかわかりません!」
ちょうど紗霧の眉間あたりに指を突きつけてくる。
「この子を貴志と呼ぶまで家には入れないと思ってちょうだい!」
そして母親は小首を傾げて、紗霧にウインクしてみせた。
きっかけは作ったよ。そんな声が聞こえた気がする。
母親の声に呼応して、少年がリビングから顔を出した。
「どうも弟の北村です」
そりゃ北村くんの弟なんだから北村だろう。貴志は、弟をジト目で睨みつけた。当の弟は紗霧に向けて、母親と同じくウインクしている。
北村家の教育、恐るべし。どうやら弟は母のアシストをしているつもりらしい。
「悟志くんだよね。北村くんから話は聞いてます」
紗霧は悟志にペコリと頭を下げると、貴志の顔を確認した。額に汗をかいて、目が泳いでいる。「我が家へようこそ、坂木さん」
引きつった笑顔で、貴志は紗霧を招き入れようとした。
しかし北村家の面子はそう甘くない。甘くはないのだ。
「縁を切るよ」
母と弟のユニゾンで詰め寄られる貴志。
追い詰められて覚悟を決めたのか、貴志は大きく深呼吸した。
「さ、紗霧さん…は、変だな。
紗霧…ちゃん?もっと照れる…どうしよう」
独り言のようにもごもごと呼ばれる自分の名前に、紗霧は全身がこそばゆく感じていた。
貴志が全力で照れているのが可愛くて。そして貴志が自分の名前を呼ぼうとしてくれてるのが嬉しくて。
心の底から笑みが溢れ出してくるのだった。
「紗霧って、呼び捨てにしてみて」
恋人の言葉に貴志は息を飲んだ。これは一体なんの時間なのか。母親と弟が見ている前で、恋人を初めて呼び捨てにしようとしている。
「さ…紗霧」
俯いて貴志が絞り出す。その声、その音感、そのリズムを紗霧は心に刻み込んだ。
初めての彼氏が、初めて自分の名前を呼んでくれた。この思い出は生涯紗霧の心に刻み込まれ、永遠の宝物になったのだった。
母親と弟がにんまり笑ってハイタッチしている。貴志の成長を祝って今夜は赤飯を炊こうなんてはしゃいでいる。そして二人の顔が今度は紗霧をロックオンした。
「お邪魔します。貴志……くん」
自分の名前は呼び捨てにさせておいて、我ながらズルいな…。そんな事を思いながらも、その音感がしっくりきた紗霧は、そのまま君付けを定着させた。
緊張してかき消されてしまっていた嗅覚が戻って来る。リビングからは美味しそうな香りが漂っていた。
「坂木さんが来るのに合わせて、お昼ごはん作ってたんだよ」
その瞬間に三人の目線が刺さる。貴志は再び全身から汗を吹き出させた。
「さ、紗霧に食べてほしくてご飯つくってたんだ」
言い直した貴志が愛おしくて、紗霧の耳が熱くなる。絶対に赤くなったのバレちゃうな…。
愛おしい貴志が、自分のためにご飯を作ってくれたのが嬉しくて、紗霧の顔が綻んだ。
林間学校以来、初めて食べる貴志くんのご飯…楽しみだなぁ。
想像と香りだけでもうおいしい。
自分の感情の七変化がおかしくて、紗霧はとうとう笑いだしてしまった。
ああ…私は今、好きな人の家に初めて訪れたんだ。
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