【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第80話-やまない雨の季節〜紗霧の雨④
「今日はお赤飯炊かなきゃね」
食卓で恋人の母親が、そうのたまった。目の前で初恋の彼がすっ転ぶのを、紗霧は目撃した。
「な、な、なんで?」
貴志は開いた口がふさがらない様子だった。
「だって息子が家に、初めての彼女を連れてきたんだよ。お祝い以外の何物でもないじゃない?」
事も無げに返す母だったが、家に小豆の備蓄はない。ごま塩も置いていない。
「炊くのは誰?小豆とごま塩を買いに行くのは誰?
母さん、赤飯の材料知らないだろう?そもそもご飯炊けないだろう?」
それはもちろん、貴志の仕事。母親はそう言わんばかりに、満面の笑みで貴志を指さした。
「紗霧ちゃんも…って言いたいところだけど、さすがに親御さんに申し訳ないわね。
明日貴志に持っていかせるわ」
いや、貴志はまだ炊くとは言っていない。そもそも自分のお祝いである赤飯を、貴志自身が炊くとはいかがなものか…。
いつも…こんな感じなのかな?
貴志が生き生きとしている。学校で言い寄る女子たちを、澄ました顔でいなしている時とは大違いだ。
山村裕と二人の時も、そう言えば貴志はこんな感じだった。貴志の人気が凄まじくて、彼が親友と二人でいる時間すらほとんど見たことがなかったが。
山村くん…羨ましいな。
家族以外で貴志の素顔を見られる裕に、紗霧はほのかな嫉妬心を抱いていた。
これを貴志に伝えると、ちゃんと答えてくれるだろう。
裕は緊張でしどろもどろの貴志を知らないし、照れている貴志も知らないと。
紗霧しか知らない顔を貴志が見せていることを、まだ紗霧は気づかないでいるのだった。
「ごめんね。ご飯が終わったら私も悟志も部屋に引っ込むから」
貴志の母が両手を合わせて頭を下げた。
「ヘッドホンして音楽かけるから、何をしても大丈夫だよ」
悟志は親指を立てていたずらっぽい笑みを浮かべた。屈託のないその顔は、貴志よりも裕に似ている気がした。
母親も親指を立てて、ニヤニヤとしている。
「えっと…何をしても、と言いますと?」
顔が紅潮している事を、頬の熱が教えてくれた。戸惑いがちに紗霧が問うと、二人はフヒヒと声に出して笑う。
「何をって、勉強でしょ?」
この家族…怖い。
「貴志の部屋だと机がないから、リビングを使ってちょうだい」
からかうような顔のまま、母親は紗霧に、伝える。その表情が急に引き締まった。
「今日はごめんね。貴志と二人でいたいよね。
だけど貴志が初めて選んだ彼女を、どうしても見ておきたかったんだ」
お義母さんも緊張されてたんだな。紗霧は母親の言葉に、ぴんと背筋を伸ばした。
「貴志に見る目があるのが分かって安心したわ。
ご両親に大切にされてそうだし、貴志のことも大事に思ってくれているのがよくわかる。
貴志の事、よろしくね」
そう言うと貴志の母は、テーブルに頭がつきそうなくらいに、深々と頭を下げた。
「これで北村家では二人の仲は公認。紗霧ちゃんは、私の娘認定を通過しました。
だから本当に、この家で何をしてもらっても構わないよ」
そう言うと母は涼しい笑顔を見せた。緊張がほぐれて紗霧はようやく気づいた。
貴志くんはお義母さんに似たんだね。
少し前までの緊張感が、居心地の良さに変わる。
「子どもさえ作らなきゃねー」
紗霧の心の許容量をはるかに超えた衝撃的な母親の一言に、紗霧は気絶するように突っ伏した。
居心地の良さ…?
テーブルに打ち付けた額を擦りながら、紗霧は火が吹き出してきそうなほど熱い頬を、俯いて隠すのだった。
少しの時間を置いて、ようやく貴志の料理が配膳された。
ふわふわの…いや、ふわっふわのオムライスと野菜たっぷりのポトフが揺らめく湯気の向こうに見える。
全員で声を合わせて「いただきます」と挨拶した瞬間には、悟志が口をあんぐりと開けてオムライスを頬張っていた。そして熱そうに悶える。
紗霧はゆっくりとポトフを舌の上で転がすと、感嘆のため息をついた。
柔らかい野菜の甘みを控えめな塩味が引き立てている。薄味なのはお義母さんが内科医だからかな?
ハーブが効いていて、減塩なのに不思議と味は薄くない。絶妙な仕上がりに紗霧は幸せそうに顔をほころばせた。
その恍惚の表情に、母はうんうんと満足そうに頷いた。
「いつでも嫁いできて良いからねー」
ゴホッ…!母の発言に貴志と紗霧が同時に蒸せた。
食事の時間は和やかに過ぎた。洗い物を始めようとする紗霧を手で制したのは悟志だった。
「俺も、兄さん目指して頑張る人だからさ。後片付けは俺がやるよ」
そう言ってシンクと向き合う悟志に、今度は母が声をかけた。
「ちょっと紗霧ちゃん借りたいから、今日の洗い物は貴志に任せようか。
悟志は部屋でヘッドホンしといて」
聞かれてはいけない話でもするつもりだろうか。貴志は身震いしながらも洗い物を始めた。
娘が欲しかったと言って、貴志も悟志も小さい頃には随分な事をされたものだった。
3歳児の頃に全身リボンだらけで写真を撮られたのは、記録だけではなく記憶にも残っているくらいだ。紗霧を娘認定したということは、母なりに思うところがあったのだろう。
思うところ…って紗霧はおもちゃじゃないぞ。
「ちょ…待って、母さん紗霧に何をするつもりだよ!」
慌てて叫びながらも、始めてしまった洗い物はやめられない。貴志はソワソワとしながらも、油残り一つない見事な仕上がりで、食器を片付けていった。
これはどんな時間だろう。始めて訪れた恋人の家で義母と部屋に二人きり。
しかも義母ときたらにんまりと笑ってこちらを見ている。
「んーふふー。んーふふー」
謎の鼻歌を歌いながら義母はクローゼットを物色していた。
「紗霧ちゃん、これあげる」
取り出したのは水色のワンピースだった。
「これなら重ね着したら流行とか関係なく着れそうだからねー」
そう言って後ろから紗霧に服をあてがった。サイズはちょうど良さそうだった。満足気に義母が頷いた。
「娘が生まれたらね、一緒に着せ替えしたりメイクしたりしたかったんだ。
ちょっとだけ付き合ってもらえたらうれしいなと思って」
そう言うと、義母は紗霧に訥々と語り始めた。
貴志の両親が出会ったのは如月中学校だった事。すぐに惹かれ合って付き合い始めたそうだ。
ちょうど今の貴志と紗霧のように。
「だけどね、彼には僻地医療に携わりたいって夢があったから、いつかは離れる日がくるかも知れない。
もし結婚して、子どもができたら、彼が追いかけたい夢を奪ってしまうかも知れない」
この恋はいつか終わりを迎えるほうが、彼にとっては幸せなのかも知れない。
「だからね、私は…彼にひどいことをしたの。
浮気もしたし、なんなら目の前で他の男子にキスした事もあったのよ。
大好きな人だったから、自分から別れるって言えなくて。彼に嫌われようと必死だった」
それでも好きだと言い続けてくれた人。それが貴志の父親だった。
「貴志はね、父さんをすごく尊敬しているの。
きっとどんな事があっても、貴志は紗霧ちゃんの味方でいてくれると思う」
だからこそ心配なこともある。
「私たちもそうだったから、初めてを迎えるのをダメだとは言えない。
でもね、貴志と悟志が生まれて、彼は自分の夢を十年待ったのよ。子どもたちの事を本当に大切に育ててくれたから」
愛情が時に夢を奪うこともある。それだけは覚えておいてと、義母は寂しそうな顔でつぶやいた。
だから子どもだけは作ってしまわないように…そう義母は念押しすると、紗霧の肩を優しく叩いた。
「好きって気持ちが苦しいって感じたら、それは良い恋だから苦しいんだよ。良くない恋なら嫌になるから。
私みたいに苦しさから逃げて、浮気だけはしないであげてね。ああ見えて貴志は弱い子だから」
寂しそうな義母の顔をまっすぐに見つめ返して、紗霧は無言で頷いた。
わかっている。中学生が大人になって結婚するまで、同じ人を好きでいることが、どれだけ大変なのか…わかっている。
進学で離れることもある。夢が二人を分かつこともある。二人が夢を諦める理由になることも。
それでも、貴志と一緒にいたい。できることならいつまでも。
紗霧がリビングに戻って来た。何やら怖い顔をしている。
貴志は落ち着かない様子で紗霧に何かあったのか尋ねてみた。
「初めて好きになったのが貴志くんで良かったって、考えてたんだ。
お義母さんと会わせてくれてありがとう」
そう言って、紗霧はニッコリと笑った。
この日紗霧が母とどんな話をしたのか、貴志が、知ることはなかった。