【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第62話-夏が来る〜貴志と紗霧の2年前②

 北村貴志の朝は早い。4時半に起きて、1時間ほど自転車トレーニングをしたら、母と弟の朝食を準備する。コーヒーは豆から中細に手挽きした豆をハンドドリップでゆっくりと抽出する。この至福の時を終えると、洗い物を済ませてさっさと登校してしまう。
 今はそのための準備時間。心をコーヒーでしっかりと整えていく。
 昨日は良いことがあったので、今日はマイルドなブレンドにしてみる。甘めの豆を中心に酸味が薄くなるように調整して淹れたコーヒーは、爽やかでほろ苦く、後味はフルーツのようにほんのりと甘い。まるで初恋のような味わいだった。

 貴志の初恋の人は、親友の裕と同じ人だった。自分の知る限り最高にいい男がライバルとなったのと同時に、同じ人を想う同志として裕との友情はさらに深まった気がした。
 そして昨日の出来事。坂木紗霧から声をかけてくれて、勉強を教えてもらえた。
 林間学校前に紗霧が申し出てくれた、
「私にできることあったら教えてね」
 国語を教えて欲しいと返したその言葉を、彼女が覚えていてくれた。それが嬉しかった。本当は班長の仕事を手伝ってくれようとしてたことくらいはわかっている。
 だけど林間学校と共に終わってしまうようなお願いはしたくなかったんだ。
 俺は「文法の解釈」でわからないところを聞きたかったんだけど、坂木さんはあれで約束を果たしたと思ってるのかな。
 だとしたら悲しい。昨日のは裕のお願いであって、俺のお願いではないよな?
 今度は俺のために勉強を教えてくれるだろうか。
 期待よりも不安が膨らんだ気持ちで口にしたコーヒーは、一口目よりも少し苦くなったように感じた。

 坂木紗霧の朝は早い。5時に起きてまずは机に向かい、軽く勉強する。教科は何でも良かったが、最近はもっぱら数学に取り組んでいる。起きてすぐは数学が良いと聞いたのが理由だった。情報源は北村貴志だ。
 わからない所が出来たら北村くんに聞いてみても良いのかな?
 もちろんだ。分からないことがあれば質問してもらえたりするのかな?と貴志も思っているのだから。そのために自分の得意な数学を朝の学習に勧めたのは否めないのだから。
 まあ、どうせ学校じゃ他の女子に囲まれて、話しかける事も出来ないんだけど…。
「学校の外でも会える関係になれたら?」
 思いが口をついて出てきてしまう。頭から湯気が出そうなくらいに恥ずかしい。
 最近思考力が落ちている気がする。気がつけば頭の中に北村くんがいて、照れている間に時間が過ぎてしまう。学習効率が悪いことこの上ない。そのくせ成績は飛躍的に伸びているのだ。
 頭に浮かんだ貴志は涼やかな表情で、その顔に見守られていると、苦手なはずの数学もサクサクと解くことができた。幸せホルモンがシナプスを繋いでいくのが実感できる。
 また昨日みたいに話せたら良いなあ。
 あまり人に頼らない北村くんが、珍しく頼ってくれた。昨日は山村くんのわからない所を答えただけ…。
 北村くんが教えてほしいって言ってた文法の解釈は、まだ説明してないって事で良いんだよね?
 いつもより近い距離で話せた昨日。
 二人の肘が後数センチまで近づいたあの時間。貴志に最接近した方の肘がまだ少しくすぐったい。
 あれで約束を果たしたことになってたら、悲しいな。
 一旦数学を切り上げて、国語のテキストを開く。北村くんがどんな質問をしてきても答えられるように、もっと勉強しないと。
 
 二人には知る由もない事だが、奇しくも紗霧が数学の勉強を切り上げたタイミングと、貴志が自転車トレーニングを切り上げたタイミングはほぼ同時だった。

 1時間の自己学習を終えた紗霧は、シャワーで寝汗と疲れを洗い流していた。これも毎日のように続けている。
 鏡の前に立って、顔を、髪を戦闘モードに仕上げていく。学校という戦場に赴くための儀式。そして北村貴志争奪戦で生き残るための準備でもあった。
 ほんの1ミリでも良い。昨日よりかわいいと思ってもらえるように、入念に髪を乾かして、櫛で髪をとかしていく。肩まで伸びた髪の毛はエアコンの微風にすらなびくほどサラサラに仕上がった。
 前髪は眉の高さで揃えられ、センターが少し開いて丸みを帯びた額が覗いている。
 鏡の前で笑顔の練習。母から勧められた米ぬか化粧液をしっかりとなじませて、今度は日焼け止めを重ねていく。
 塗りムラを作ることは許されない。あの鋭い洞察力の北村くんは、そんな手抜きをあっさり見抜いてしまうだろう。
「だったら私の想いも見抜いてよ…大事なところは鈍いんだから」

 貴志が一口目よりもコーヒーを苦いと感じたちょうどその頃、紗霧が毒づいていた事などお互いに知る由もない。

 坂木家の朝食は各々で準備する。サラダで抗酸化物質を取り入れながら、グラノーラで空腹を満たしていく。
 洗い物を済ませて、制服に身を包んだ紗霧は、今日読む本を選び、それを片手に家を出た。始業までまだまだ時間はたっぷりある。
 学校近くの緑地公園でベンチに腰掛けて、おもむろに読書を始める。
 鳥のさえずり。木漏れ日の優しい明かり。木々が奏でる調べ。心地よい朝の空気が好きだった。
 もうすぐ暑くなると思うとぞっとするけれど。
 いつもなら始業10分前までじっくり読書を堪能してから登校する。
 しかし今日はそうもいかないようだった。
 誰かの気配を感じる。まっすぐに向かってくる足音に耳を澄ますと、すぐにその主が誰だかわかってしまった。
 先に気づいたことがばれると恥ずかしいので、気づかないふりで読書を続ける。
「坂木さん?」
 顔を上げると思った通りの人がいた。
「北村くん?早いね、もう行くの?」
 貴志の顔を見ると急に恥ずかしくなって、紗霧は本に目線を落とした。俯いていれば顔が赤いことはバレないかな?
 貴志は紗霧の目線を追うと、ハッとしてすぐに謝罪の言葉を述べてくる。
「ごめん!読書の邪魔をしちゃったね」
 申し訳無さそうな貴志の表情に、紗霧の胸が高鳴った。こういう気遣い、気配りは本当に紳士的な人だなと思う。
「大丈夫だよ。何回か読み返してる本だし、休み時間でも読めるから」
 読んでいたのは大好きな作家の、初恋を題材にした詩集だった。これを読んで、気持ちを盛り上げてから貴志に会いたかったのだが、その前に会ってしまった。
 それともこの本が巡り合わせてくれたのかな?
「北村くんはいつもこの時間なの?」
 そう言えば貴志は日直並みに早く登校していると聞いたことがある。
「誰よりも早く着くと、少しは静かな時間が過ごせるからね」
 そうやって短い自習時間を確保するものの、次々に登校してくる女子たちに囲まれて、すぐに毎日の騒々しい朝に変貌していくらしい。
「昨日、帰りに裕とここで少し話したんだ。その時に公園の中って割と近道なんだって気が付いて」
 公園は中央で十字に交差するように舗装されていた。所々に置かれたベンチに座って、利用者は緑を感じられるように作られていた。
「まさか坂木さんに会えるとは思わなかった」
 紗霧も自分の日課に貴志が舞い込んでくるとは思わなかった。それよりも。
 会えた…って思ってくれたって事は、会いたい…って思ってくれてたって事?そうなのかな?
「私もまさかこんなところで王子様を独り占めにするとは思わなかったよ」
 ああ…嫌な言い方をしてしまった。膨らんだ期待が脳を圧迫して、思考力が低下するのを感じる。
「なんてね…私こそ一人になれる時間を奪ってごめんなさい。
 今ならまだ誰も来てないんじゃないかな?」
 紗霧はそう言って貴志を促した。本当はもう少し二人で話したいのに。
 貴志はしばらく口元をもごもごさせていたが、やがて頷いて紗霧に手を振った。
「じゃあ、また学校でね」
 涼しい笑顔で手を振る貴志に、紗霧も小さく手を挙げて返す。
 本に目線を落とすと、貴志の気配がゆっくりと離れていくのを感じた。去っていく貴志にふと寂しさを感じて、目線を本から貴志に移す。
 その瞬間に振り返った貴志と目があった。
 木漏れ日が二人を柔らかく包み、木々のざわめきが高まる鼓動の音を静かにかき消してくれた。

 紗霧が教室についたのは始業5分前だった。ドキドキを抑え込むのに時間がかかってしまったのだ。本を読んで押さえようとしたが、内容が恋の詩集だったので、胸の高鳴りは落ち着くどころか助長されてしまった。

 教室の扉をくぐると北村貴志の声が聞こえた。その声に心臓が過剰な反応をしてくれる。もう動悸で死んでしまうんじゃないだろうか。
 しかしまだ甘かった。その時の貴志の言葉を聞いて、紗霧の鼓動は限界を超えて早くなってしまうのだから。
「俺、好きな人ができたんだ。
 だから今みたいに王子様って呼んで、特別扱いするのを終わりにしてほしいんだ」
 貴志の言葉に、教室中の空気が固まった。しばらくの静寂の後、校舎が震えるくらいの絶叫が学校内をこだました。

 始業と共に教室に現れた担任もその阿鼻叫喚を抑えられない。悲鳴や鳴き声が鳴り響く中で、紗霧は居心地悪そうに席についた。
「おはよう、坂木さん」
 貴志は何事もなかったかのように、紗霧に声をかけた。
 王子様でなくなったら…。紗霧が放った一言を、貴志は実現しようとしている。
 痛いくらいに胸が高鳴った。貴志の言葉が自分のためとは限らないのに、背中は汗を欠くくらいに熱くなる。貴志の言葉が何度も胸にリフレインし、まるで早鐘でも撞かれたように胸と一緒に頭も脈打った。
 どうしよう…今授業で指されたら、何を聞かれても回答は「北村くん」と答えてしまうだろう。そのくらい、頭の中が貴志でいっぱいになってしまった。
 
 放課後まではあっという間に時間が過ぎていった。
 その日貴志を訪れてきた女子たち全員に、貴志は丁寧に応対した。
「好きな人ができたので、みんなの王子様ではいられません」
 何度もその言葉を繰り返し、何度も頭を下げ続ける。
 それでも訪れる女子たちは後を絶たなかった。貴志の好きな人が自分でありますように。そんな一縷の望みを託して。
 結局1日をかけて、訪れた女子たちの中に北村貴志の想い人と言われる人は現れなかった。

 もしかして…。紗霧の期待が膨らんでいく。
 どうしようお母さん。私、好きな人が…もっと好きな人になったみたい。

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