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078.科学先進国は時代とともに変わる

科学技術研究は、過去の積み重ねという基礎の上に成り立ちます。国としてその分野の先端に立つためにはそれなりの土壌と環境が必要です。先進国以外の国で、優秀な科学者がいるからといって、個人としての力はゆるぎないものとしても、それだけでその国の成果として世界のトップに並べるというわけではありません。
たとえば理論物理などの世界では、チームや環境としてではなく、組織的な土台なしでも個人の力で、ある部分突出した研究が可能ですから、1949年に湯川秀樹が中間子の理論でノーベル賞を受賞するようなことが可能でした。しかし、国として継続的に科学的な成果を生むには、総合力が必要ですから、ある国が科学的な総合力をもてるかどうかは、蓄積、イコール歴史にも大きく左右されます。
日本人に独創性があるのか/ないのか、日本で独創的な成果を生むことができるのか、という議論をする際に、「歴史的な流れを見ることが重要だ」というのは、北海道大学大学院教授で科学史が専門の杉山滋郎です。
杉山は、著書『日本の近代科学史』(朝倉書店)のなかで、日本はこれまで欧米の進んだ科学や技術を導入することに汲々としてきたが、そのことを根拠に日本人には独創性がないとの議論もされてきた。しかし、欧米がいつも科学の先進国であったわけではなく、また「欧米」とひとくくりにされる国々の間でも、科学・技術の先進国はたえず移動していた……と前置きして、以下のように書いています。

「17世紀半ばまではイタリアが科学研究の中心であったが、後半になるとイギリスへ、1800年頃にはフランスへ、1800年代後半にはドイツへ、そして1930年代に入るとアメリカへと科学の中心が移動した。それに応じて、科学を志す人たちはイタリアへ、イギリスへ、フランスへ、ドイツへと遊学の旅に出た。19世紀の前半にはフランス語の読み書きと会話の能力が要求され、19世紀後半からはドイツ語の能力が要求された。イギリスの代表的な専門科学雑誌Philosophical Magazineには、フランス語やドイツ語で書かれた論文を英語訳したものがたびたび掲載された。また第二次世界大戦後にアメリカの科学・技術が世界的に優位に立つことができた背景には、ヨーロッパからの「亡命科学者」の存在がある。
こうして見ると、科学の後進国はみな、先進国から科学の成果を必死に学び取って先進国に追いつこうとし、うまくすると追い越していった、それが歴史の「常態」である。先進国から科学や技術をひたすら導入することがただちに独創性の欠如を意味するとは思えない。」

(①『日本の近代科学史』(朝倉書店))

これは言い換えれば、開発途上国にいきなり独創的なものを生み出せと言っても無理な話で、それなりの成果を生み出すためには学んで力を蓄える期間が必要だということでしょう。これはまさに、日本が開国以来経験してきた道でもあります。問題は、学ぶなかから、独創的な研究が出てくるためには、どのような環境づくりが必要なのか、そして、成果を生みだすためにどのような孵化装置が必要なのかということです。
そうした科学技術力は、学んで発展させることができるのか、その期間はどのくらいを必要とするのか、そこに国民の持つ基本的なベース能力・資質が問われるのではないかと思います。
こうしてみると、あまり発展のない停滞していた期間とみなされていた江戸時代が、意外と、開国すると西欧の最新技術を猛烈な勢いで吸収し、展開するに必要な力を蓄えた期間だったのかもしれないということに気が付きます。

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