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030.日の丸…昇る朝日の尊き徽章

伊藤博文は、スピーチの最後を、誇らしげにこう締めくくります。ここがこの日、伊藤が一番言いたかったことだろうと思います。

 

 我国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、最早帝国を封ぜし封蝋(ふうろう)の如くに見ゆることなく、将来は事実上その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章となり、世界に於ける文明諸国の間に伍して前方に且つ上方に動かんとす。

「伊藤博文伝 上」(明治百年叢書 原書房)

 

日本の国旗である、白地の中央に描かれた赤い丸は、国を封じる「封蝋」(手紙に封をする蝋のシール)ではなく、「昇る朝日の尊い徽章」であり、「世界における文明諸国の間に伍して、未来に向けて、かつ上方に向かって昇ろうとしているものだ」と締めくくりました。

なぜここで日の丸が唐突に出てくるのか、若干の説明が必要かもしれません。

明治維新で体制が変わった時、まだ日本の国には正式な国旗が制定されていませんでした。対外国という点で、国家としての体裁が整っていなかったということです。というよりも、この時点まで、天皇、将軍(幕府)のどちらも、対外的に日本を国家として強く意識してこなかったということかもしれません。

最初に問題になったのは、船舶です。

公海を渡る船は、その船の船籍を示す国旗を掲示することが義務付けられていました。しかし、日本の船が海外に行くことはありませんでしたから、国を象徴する国旗のないことは問題にならなかったのです。しかし諸外国と通商条約を締結し、行き来をするようになると、国旗の必要性が生まれてきます。そこで、明治政府は明治3年(1870年)、商船規則の制定に際して、白地に赤丸の日の丸を「御国旗」として規定したばかりでした。

しかし、日本の国そのものが古い封建社会の国とみられていたアメリカでは、この赤い丸は手紙に封をするように人々を封じ込める赤い封蝋と揶揄されていました。伊藤の演説は、こうした揶揄に対する想いを熱く語ったものでした。

このスピーチは、万雷の拍手でたたえられ、翌日の新聞にはこのスピーチへの賛辞があふれていたそうです。

のちに、「日の丸演説」と呼ばれることになるこのスピーチは、後進国と見下していた東洋の小さな国から来た若者が、英語で演説を行ったというアメリカ人にとっての驚きもあったでしょう。改めて読んでみると、それ以上に、新しい国を作ろうという、伊藤の溢れるほどの熱い思いが伝わった名スピーチといえます。

視察団は、このあと1年半以上にわたって欧米諸国を視察していくのですが、この伊藤博文のスピーチ、国を憂う思い、卑屈にならずに堂々と主張する自負心、そして、先見の明……。後に首相になる人物とはいえ、弱冠31歳でこれだけの演説をやってのけるとは、見事というほかありません。

その後の日本は、このスピーチの通りに歩みました。殖産興業・富国強兵をへて、現在のものづくりの国に通じる出発点を、この伊藤のスピーチにみることができます。

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