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024 幕末、国禁を犯してのサムライたちの海外留学

海外の事情を学ぶ必要を痛感したいくつかの藩は、留学のための渡航申請を幕府に出すのですが、はねつけられます。1854年、吉田松陰が海外への渡航を志願して黒船に潜り込もうとしますが、幕府から渡航禁止を伝えられていた黒船側が乗船を拒否し、松陰が捕縛されるという事件が起こります。

国内は相変わらずそんな状態でしたが、幕府は、通商条約の批准書の交換や海外視察の機会を利用して各国に使節団を派遣し、その際に、留学生も送り出します。その最初が万延元年(1860年)の遣米使節団です。

咸臨丸での太平洋横断が快挙のように伝えられていますが、使節団の中心メンバーは全長77メートル、船幅14メートル、排水量3,765トン、蒸気外輪の米軍艦ポータハンで渡航し、帆船・咸臨丸(排水量620トン)は、米軍航海士たちの支援を受けた日本人訓練生による練習航海といったところでした。

こんな状態でも、一般の海外渡航は禁止されたままです。海外渡航を独占・先行する幕府の姿勢にいら立って、いくつかの藩は、勝手に留学生を送り出すようになります。

1863(文久3)年に長州藩は井上馨、伊藤博文ら5名をイギリスに留学させます。1864年には安中藩の江戸詰め下級武士だった新島襄が函館からひそかにアメリカに脱国。1865(慶応元)年には薩摩藩が森有礼、五代友厚ら19名をイギリスに留学させ、他に佐賀藩、土佐藩なども留学生を派遣します。

伊藤博文たちの渡航は、のちに長州ファイブと呼ばれるようになりますが、これらはいずれも長州藩や薩摩藩が派遣したもので幕府が認めたわけではありません。

日本人の渡航は解禁になっていませんから、旅券の制度もありません。上記の全員は厳密に言えば国禁を犯しての密航です。長州藩や薩摩藩の旅券なしでの留学を助けたのが、長崎に滞在していたジャーデン・マセソン商会のグラバーだったと言われています。

それにしても、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、翌59年に5港が開港してすでに数年が経過しています。通商を可能にしておきながら、もっぱら外国商人が買いに来て、港で取引をさせるだけで、日本人が外国に売り/買いに行くのはご法度です。この一方的な交易の体制は、いかに幕府の意識が遅れていたかを示すものと言えるでしょう。

そんな環境の中で、庶民の意識はどうだったかといえば、例えば、こんな状態だったのです。

「中津川の商人、萬屋安兵衛、手代嘉吉、同じ町の大和屋李助、これらの人たちが生糸売込みに眼をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発してきたのはやがて安政六年の十月を迎えた頃である・・・」。

『夜明け前』第4章


これは、木曽路はすべて山の中である・・・で始まる島崎藤村「夜明け前」の第4章の書き出しです。

安政6年10月といえば、西暦に直すと1859年11月。幕府が通商条約で約束して5港を開港したのが1859年6月1日のことです。木曽の山の中の商人でさえ、開港した4か月後には、生糸を売りに横浜に出ようかという状況だったのです。

この好奇心旺盛にして、時流の流れに遅れてはならじ・・・と迅速に行動する庶民の機動力と比べて幕府の対応のいかに遅いことか。

多くの藩からの要望もあり、幕府が、学術・商業のために「海外行き許可の認証に関する布告」を発布するのは、1866(慶応2)年4月7日(新暦:5月21日)のことでした。

ここではじめて民間人の海外渡航が可能になるのですが、この時、日本国政府発行の第1号旅券を取得して海外に出たのは、幕府や雄藩の侍たちではなく、なんと手品師・曲芸団で、国内に来ていた興行師に誘われてアメリカ公演に出た一行だったそうです。

海外が宇宙と同じように謎の多い国で、出かけていくには決死の覚悟が必要だった時代のことです。私たちの先輩は、いまの私たちが考えるよりも、ずっと好奇心旺盛で前向きな人たちだったのかもしれません。

この間に、薩長などが英・米・仏・蘭などの国と薩英戦争、下関戦争・馬関戦争などを経験。彼我の軍事力の格差の大きさを目の当たりにした幕府は、攘夷は不可能であることを知り、欧米から技術を学んで軍事力を強化するという方向に政策を転換します。

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