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北川東子「ハイデガー」NHK出版

ハイデガーの「存在と時間」を前に途方にくれているのもつまらないので、入門書!ということで図書館でこの本を借りてきた。「シリーズ・哲学のエッセンス」の中の一冊だ。こういう入門書は大事だよなぁ^^!

「存在」の専門家がいてもいいじゃないか?

そんな問いかけから始まった。ハイデガーが試みた「基礎存在論」「現存在分析」。これで我々の存在をある程度考察できる。存在論とは「存在そのもの」について考える思考であり理論だ。

「存在とは何か?」

この問いが切実な問題となる2つの場面がある。それは哲学と人生論。哲学についてはアリストテレスの「形而上学」を端緒としてこの世界をとらえようとしたし、人生論においては例えば「限界状況」において「どうしたらいいのか?」という問いへの道筋を明らかにしようとしてきた。存在論は「そのどちらか」ではなく「そのどちらでもなければならない」という立場をとる。この存在論をよく示しているのが未完の大作「存在と時間」である。

ハイデガー曰く、哲学とは「目覚めること」なのだそうだ。「目覚める」とは「眠りから覚める」ことを指すが、「眠り」とは「半ば不在であると同時に半ば現にいること」つまり「あいまいな宙吊り状態にあること」ということになる。

「存在への問い」は古代ギリシャのプラトンが立てた問いであるが、その後の哲学において正面からそれをとらえる本格的な哲学は現れなかった。いわば眠りの中にいたわけだ。途方もないことだが、ハイデガーは「存在と時間」の冒頭にプラトンの対話論「ソフィステス」を引用し、「1500年の歳月眠っていた問い」を「目覚めさせる」作業を行った。現代の問題に挑むには「根源」に立ち戻り、凝り固まった哲学の歴史を一度「打ち砕く」必要があったというわけだ。

現存在としての自分
ハイデガーはこの作業を進めるのに新しい専門用語を複数産み出している。例えば「現存在(Dasein)」。これはドイツ語で「今ここにある」という意味らしいが結局人間を指している。しかし、「人間」といった瞬間に解釈の自由は大きな可能性として出てくる。それでは「存在とは何か」を問い続けることは難しい。よってこの専門用語は見出された。「現存在」は自分自身として理解している「本来性」と世間の尺度で理解している「非本来性」の2つで理解されるとし、そのほとんどは後者による理解だとしている。ということはあらゆる選択肢が飛び込んでくる可能性がある。それをハイデガーは一つの図でしめしている。

下弦が開いた弦としての「自分」

世間並みの自分を選ぶか、そうでない自分を選ぶかの「選択の自由」に対しては開かれている。それをハイデガーはこの図で示した。半円の下は開いていて、半円の上部に内側から外側に目がけてベクトルが向いている図だ。

「自由とは、自分の意思で何かを選び、何かを決定することでなく「開かれていること」だという。あらゆる出来事に各々「開かれている」。

そう、私たちは自分が何を選択しているのか、本当のところはわからない。何を選択したかわからない。後で振り返った時に「あ、これを選んだんだ」と明らかになってくる。何が起こるかに対してオープンになっている、つまり何があるかなんて誰にもわからない。

ハイデガー自身、若い教え子との不倫に熱を注ぐ自分があり、ナチに熱狂的に同調する自分があり、現代に警鐘をならす自分があった。錯綜する「自分」はまさに「下弦が開いた弦としての自分」であった。

「選択の自由」に対して開かれているという言葉は「可能性、偏見」に対して開かれているともいえる。その可能性、偏見とはハイデガー自身が体験したものと重なっている。

だから一体何なんだ?と何度も言いたくなったが、ハイデガーは答えを出すことなく歴史には未完の「存在と時間」が残された。しかし、「問いかけ続けよ!」ということだけは一つの道筋として示されたと思っている。それこそが「生きることへの意思」を示すということなのだ。

<メモ>
・意味とは、あることがわかっている場である。それがわかって、それを解明できる時、はっきりと口に出すことができるもの、それを意味と呼ぶ。
・意味がわかるというのは「ああ、そうであったのか」という納得の体験であり、その体験をもとに人は生きていくことができる。
・まず「自分の自由から発せられる問い」(可能性を求める問い)がスタート
・「これでよいのだろうか」という問いを立てたときに人間は優位にたつ
・自分のなかには「本来の自分」と「本来でない自分」がある。まずその中で揺れ動く自分を理解すること
・自分とは「途上にある」人間である。
・自分の問題を考えることは、自分がだれかをはっきりさせることではない。自分を「開いておくこと」「可能であることをしっかりつかんでおくこと」それが大事。
・「自分とは何か」を考える手続きとして、まず「自分自身から逃げる」とか「自分を見失う」がどこからどこへ?を考える。言い換えると「自分のやるべきことから逃げている」「自分がどうありたいのかを見失っている」になるが、そうするとこの自分は「自分の義務や自分の理想」ということにならないか?
我々が「自分を見失う」のは「世間並み」という、「一般に人は」という主語が支配する領域にいる場合に使われる。ハイデガーは自己喪失や自己分裂を病的な現象とは捉えることに警告を発している。


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