見出し画像

【知られざるアーティストの記憶】第15話 渡辺謙さんの復活、そして彼へのエール

▽全編収録マガジン

▽前回

第2章 入院2クール目と3クール目の間

 第15話 渡辺謙さんの復活、そして彼へのエール

彼のその頃の頭髪は、抗がん剤で抜け落ちたところと、抜けずに残った部分とがまだらになり、バーコードのようになっていた。彼は病気になる前からほとんどいつも帽子を被っていたが、この時ばかりは帽子を被る理由はこの頭を隠す意味もあるのだろうと思っていた。ところが、陽ざしの弱い早朝などにはたまに帽子を被らずにいることがあり、マリは初めてその頭を見たときはぎょっとし、きっと帽子を被り忘れたのだろうからと、見ていないふりを心がけた。しかし彼のほうは一向に気に病む様子もなく、マリの前でもごく普通にその頭を晒した。2021年6月9日、彼の3クール目の入院の朝も彼は帽子を被っていなかった。

当日の朝はきっと会えないだろうと思った。手紙もやめにして、心の中でお見送りするつもりだった。皿を洗いながらふと、彼が知りたがっていた、白血病を克服した俳優の渡辺謙さんの近況のことが急に気になった。

ネットで調べると、謙さんは1989年に白血病を発症、1994年に再発するも1995年に復帰し、2021年もテレビに舞台にと活躍中であった。2019年に同じく白血病を発症した競泳選手の池江璃花子さんに激励のコメントを送っている。彼女も驚異的な回復を見せて退院から1年半後にトップスイマーの地位に返り咲いている。

この情報はぜひとも、入院前に彼の耳に届けたい。そう思ったマリはやはりペンを執った。彼は出発前に必ずポストを見るだろう。マリはネットで見た情報を便箋に書き写した最後に、

あなたは、大丈夫。
私がそう決めたから。
美しいあなたの生命力を信じています。

と書き添えた。朝、気功に行くときに、ポストにそっと手紙を置いた。弟のマサちゃんが窓から外を眺めていたが、こちらには目を向けなかった。

ふと、彼の庭の山椒の葉っぱがつやつやと輝いて、実がなっているのが目に入った。遠慮がちに葉の先をちぎって匂いを吸い込んでいると、なんと向こうから彼が歩いてきた。夢のように現れた。すべての荷物を手放したように軽やかに、今日のさわやかな空気と同化した笑顔と、圧のない真っ直ぐな視線をこちらに向けていた。

他愛のない話をした。
「あなたは友達はいるんですか?」
と彼は訊いてきた。マリのあまりの彼への傾倒ぶりに、ふと心配になったのだろうか。友達は、いるにはいると答えた。そして彼は、彼の親友の話をした。彼はわりといつもそうなのだが、唐突に主語もなく話し始めるから、誰のことを話し始めたのかわからず、初めから話しに置いてきぼりを食う。
「……美術の専門学校へ行って、デザイン会社を立ち上げたんだけど、その会社が失敗して……」
「……?ん?あなたのことですか?美術の専門学校に行ってたんですか?」
「私はそんなところへは行ってないよ。」
そんな調子で、マリの頭の中に?マークがいくつも浮かびっぱなしなのであるが、それが友達の話をしていたらしいということに、話が終わってからかろうじて行き着くという具合であった。

「ポストに手紙を入れときましたからね。」
と伝えると、
「あなたは過剰なんですよ。」
と苦笑され、マリも苦笑した。
「今から(気功)行くんでしょう?どこらへんでやっているんですか?」
彼が初めて訊いてくれたので、マリはお気に入りの気功場所を彼に教えた。

「じゃ、そういうことですから。」
「いってらっしゃい。」
その日のお天気のようにさわやかに、二人はするりと別れた。

会えるなんてちっとも思っていなかったから、最後に顔が見られた嬉しさで胸がいっぱいになり、マリはしばらく呆然と突っ立っていてから、ようやく振り切るように気功を始めた。次第に頭の中が空っぽになっていった。児童公園からプールの脇を通り、裏の駐車場に近づいたころ、マリは後ろから足早の足音が近づいてくるのを感じた。
「情報をありがとうね。」
振り向くと、彼がいた。マリは驚きすぎてその場で飛び上がった。そして、気功をする姿をすっかり後ろから見られてしまった恥ずかしさに顔を紅潮させた。彼の表情は、先ほどの雑談の時とは別人のように暗く、病気と向き合うときの顔になっていた。

「本当に、ありがとう。……それだけです。」
絞り出すようにそう言った。声が震えていた。彼は泣いていたかもしれない。裸の心がそこにあり、マリはそれを受け止めた。

マリは思わず、彼を後ろから抱きしめようとした。彼の細い背中がすぐ目の前にあり、手を伸ばせば届きそうに思われた。すると彼は急いで飛びのき、マリの腕から逃れた。後ろを向いていたのにものすごい反射神経だった。
彼はマリに振り返り、じっと目を見ながら、
「誤解されるから。」
と言った。その目は怒っていなかった。わかっているよ、受け止めているよ、でもそれはできないよ。そう伝えているような、まっすぐで優しい目だった。

「気持ちはわかったから。
行ってきます。」
彼はそう言うとマリに背中を向けて、来た道を真っ直ぐに戻っていった。

マリはその場に立ち尽くしていた。彼が見えなくなってから気功を再開したが、続けられなくなり、その場に泣き崩れた。いったい何の思いが溢れて来たのか自分でも判別がつかなかった。ただ、彼が一言のお礼を言いに来てくれた2分間くらいの出来事の一連が、映画のワンシーンのように美しかった。

マリが何通にもわたって彼に伝えた言葉の中で、彼に一番届いたものは、「渡辺謙の病歴と近況について伝えたこと」だったのだ。しかし、「その情報を伝えてくれた気持ち」を通して一番、彼はマリの気持ちを理解し、受け取ってくれたのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?