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【知られざるアーティストの記憶】第14話 彼の部屋でバンド・デシネの本をめくっていると

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第2章 入院2クール目と3クール目の間

 第14話 彼の部屋でバンド・デシネの本をめくっていると

「今日は私、全く化粧をしてなくて、すっぴんなんですよ。」
マリの自宅の門の前で暗い顔をしている彼に向かってマリは、突拍子もなくそう言うと、ニッと笑顔を作った。この日はなぜだか急に彼に素顔を見せたい気分になり、近頃は早朝の気功に出かけるときさえ欠かさなかったメイクをわざとしないでいたのだった。彼は突然のすっぴん宣言に言葉に詰まっていた。どうやらメイクをしている普段のマリと、すっぴんだと言われた目の前のマリとの雰囲気の違いがわからない様子だった。ちょっと答えに窮してから彼は、
「あなたって、何歳なんですか?」
と訊いた。
「43歳です。」
「え、そんなにいってるの?てっきり30代くらいかと思った。」
年齢を言って驚かれることにはマリは飽き飽きしていたが、彼に
「思っていたより自分に歳が近かった」
と思ってもらえたことには満足だった。マリはチャンスとばかりに彼の年齢を聞き返した。
「ワダさんはおいくつなんですか?」
「私は67歳。」
マリといい勝負なくらい、ためらわずに彼は年齢を即答した。私たちはどちらも、年齢という属性にそれ以上の意味や感情をまとわせていなかったのだ。

それは、バンド・デシネの本を借りるためにマリの家から彼の家に二人で移動する道中、彼の背中を追いかけながらの会話だった。67歳、という年齢には、マリも彼と同じく、
(そんなにいってるの?)
という感想を持った。彼はこれまで、
「私はトシだから。」
と何度か口にし、年金をもらっているとも話していたので、そのくらいはいっているはずだったが、それでも明確な数字を出されると驚いてしまう。彼は見た目が若々しく、せいぜい60代の前半くらいにしか見えなかったから。彼とマリの歳の差は24歳、二回りなのだった。

この日の彼には笑顔はなく、終始険しい表情のままだった。彼の玄関の中にお邪魔すると、
「いいから上がって。」
と彼はぶっきらぼうに言った。初めて家の中にいざなわれたマリは、不機嫌な様子の彼をこれ以上イライラさせないように急いでついて行った。いつも嘗め回すように見つめていた外壁の内側に入れたことの喜びは大きかった。

細い廊下を通り抜けて、一階の一番奥の部屋に通された。常に雨戸の閉まっている室内は薄暗かったが、畳に土壁の和室は予想通り隅々まで整えられていた。ここは紛れもなく彼の部屋だった。6畳のその部屋は、入り口から向かって右側の壁一面が作り付けの本棚になっていて、隙間なく本が収納されていた。本棚の反対側の壁に向かってデスクが置かれていた。そして、正面の壁には大きな世界地図の額が掛けられていた。

「バンド・デシネの本はこれだけだ。」
と言って彼は、本棚の一区画から大型の本をごそっと抜き取った。初めて目にする画風に彼の心の形を感じながらページをめくっていると、
「貸してあげるから、持って帰って読んでください。」
とまるで早く帰ることを促すように言う。バンド・デシネの巨匠メビウスのことを解説してくれるので、マリからも軽く質問すると、
「それも読んだらわかりますから。」
と彼は明らかに帰れモードであった。
「わかりました。」
とマリは本を袋に仕舞い、
「これを読んでほしかったんです。」
とスマホの画面を彼に手渡した。それは、代替医療の参考にしてほしいと、彼に手紙でも伝えてあった文章であった。スクロールの仕方を伝えて、彼が読んでくれている間、借りた本でも眺めようと畳の上に腰を下ろしたその時、ちらっと私に目を落とした彼は、
「家に帰れ。」
こわばった表情でそう言うとスマホをマリに返した。

いったい何が起きたのかわからずに
「ごめんなさい……。」
と立ち上がり、急いで部屋から出た。細い廊下を逃げるように走りながらマリは、部屋にいた間は頭の中がぼーっとなっていて本棚に並ぶ背表紙たちをちゃんと見なかったことを後悔していた。
「私はお洗濯を干さないといけないから。ちょうど用事と重なっちゃって。」
彼は慌てて、直前の自分の言葉をフォローするようにそう付け加えた。

自分は今から洗濯物を干さなければならず、あなたとゆっくり話している時間がないから、今日はこのまま帰ってほしい、ということを伝えるのに、この人はこんな言い方になってしまうこともあるのだ。いわゆる芸術家肌のつき合いづらいタイプなのだろうか、とマリは思いを巡らしてどうにか心を落ち着かせようとした。キッチンで昼食の準備を始めていた彼の弟の後ろを申し訳なく通って玄関を出ると、
「裏から帰って。」
と彼は帰り道を指示した。裏の帰り道は、玄関から通りへ出るのとは反対方向に、彼の家の庭を通り抜ける出口で、マリの家にはそちらの方が近道だった。冷たい言い方の中にも、庭を通らせるという行為はマリのことを身内と見なしているというふうにも感じられた。


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