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【知られざるアーティストの記憶】第13話 バンド・デシネの夢を語る彼に、マリは代替医療の提案をした

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第2章 入院2クール目と3クール目の間
 第13話 バンド・デシネの夢を語る彼に、マリは代替医療の提案をした

「あなたはバンド・デシネを知っていますか?」
マリはこの時、バンド・デシネを初めて聞いた。バンド・デシネとは、フランス語圏の漫画芸術のことで、彼はその作画をやりたいのだと言う。

芸術と美術は違う、芸術にとって大事なのはテクニックではなくて思想だ、そして、芸術表現の原動力は性的欲求だ、というのが彼の芸術論の見地だ。そして先日の、「性欲を性愛にアウフヘーベン」する思索に立脚した優れた作品を多く生み出しているのが、彼に言わせればバンド・デシネだということらしい。

フランスに住んだことがあり、フランスかぶれを自認しながらバンド・デシネを知らなかったことを不覚に感じたマリが、帰宅後にネット検索したところによると、バンド・デシネはフランス語で「bande=帯」+「dessinée=描かれた」つまり「描かれた帯」、意訳すれば「続き漫画」のことだという。ネットの情報と彼の説明が食い違っていたので、翌日にそれを伝えると、
「あなたにバンド・デシネを教わっちゃったなあ。」
と彼は笑った。彼の志す専門とマリの原点であるフランスとの接点であるバンド・デシネにマリが触れたくなったのは当然のことで、
「お勧めの本などあれば貸してください。」
と彼にお願いした。

6月7日の彼は、道端でも玄関でも常にマリに対して
「離れて!」
と言って、距離を堅持した。離れてと言われるほどに、彼の左の首もと辺りに口を押し付けて抱きつきたいような衝動をマリは自分の中に感じて、その辺りを凝視しながら彼の話に耳を傾けていた。

この日の帰り際に彼は、マリに背中を向けて先に玄関を歩み出ようとしながら、
「思ってくれていることはわかった。」
と言った。その言葉は唐突で、宙に浮いていたが、照れもなく明瞭で、ずしんとマリの心に響いた。それは、マリの気持ちを受け取りもしないし拒みもしない、肯定もしないし否定もしないという意思として、マリに届いた。そのあと彼は、マリに向き直って、
「これからもよろしくお願いします。」
と頭を下げた。

この、
「思ってくれていることはわかった。」
という彼の一言は、マリの中でしばらく反芻された。手紙の中で「ほのめかした」程度だったつもりの気持ちを、逆に相手から「受け止めたよ」という意思表示をもらったことで、しっかり伝えてしまった形になったように感じたのだ。そこには、マリへの信頼が含まれていた。彼との間で気持ちのやり取りがなされたという感覚があり、「約束」とまではいかないまでも一つの絆のようなものが生まれたと感じた。

一方でマリは、彼の病院治療と並行する、再発しない体づくりのための代替療法について、彼への提案を試みた。メディカルレベルのアロマを使った製品を小分けにして手渡したり、マリが通う保険の利かない治療院を紹介したりした。選択するのは彼であるが、あまり情報を持たないであろう彼に、当然偏っているはずの自分の持つ情報でも手渡してみようと考えたのだ。

治療院は、知る人ぞ知るマニアックな先生のところだった。先生は、体の中のたった一つの骨、仙骨を生命の要と考え、その骨のみを調整することで心身の不調を改善してしまうため、「仙骨先生」とあだ名されていた。とても専門的で詳しい仙骨先生のパンフレットを、
≪いつでも構いませんので、要らなくなったら返してください。≫
と添え書きをして、6月8日の朝、彼のポストに入れると、数時間後に彼はそれを返しに来た。

この日の午前中、車で出かける夫を玄関で見送った直後に玄関のベルが鳴った。まさかと思ってドアを開くと、門の前にはマスクを着けた彼が立っていたのだ!家のベルを鳴らすなどという大胆なことをする人だとは思わなかった。タイミングとしては、夫が出かけたことを確認してから来たのかもしれないけれど。彼は一つもこそこそした様子はなく、堂々としていた。

「これ、ありがとうね。読んでだいたいわかりました。興味がないわけじゃないけれど、施術ってどんなことするの?いくらくらいかかるの?」
「施術は一回4000円です。うつ伏せになって、振動する棒を仙骨から頭蓋骨にかけて順に当てられたり、いろんな高さの音のする音叉を鳴らしてくれたりします。」
「うーん。経済的なこともだけど、この先、私はどうなるかわからないから……。薬代が半月で5000円以上もかかる。医学書で予後の症例を読むと退院後に1年半で死んじゃった人も居るみたい……。」
彼は前にも言っていたことを繰り返した。初めて私の家を訪れてくれた彼の表情には、いつも病気の話をするときに見せるのと同様に、絶望の黒い影が深く差し込んでいた。
「症例は症例ですから。」
とマリが伝えても、彼の心には届きそうもなかった。


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