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解題「責任を学べる場所にいた方がいい」という話

 先日のこと。自分の元指導教官が学生に「アドバイスがあるとすれば、外に出れるタイミングで外に出たほうが良い」と言っていた。その学生に、後で個人的に「アドバイスがあるとすれば、責任を学べる場所にいたほうが良い」と伝えた。いずれも、学生のキャリア相談を受けた時の話である。

 実は、自分の発言は、当の学生の未熟さを指摘したものではなく、さらに本人のみに特別発言したわけではない。周りに居合わせた学生に対しても同様に、できるだけ本質的な意見を述べたつもり。この記事では後者の「責任を学べる場所にいたほうが良い」について、解釈の一例を書き残しておく。

仕事というゲームを知ろう

 学生のキャリアの悩みを聞きながら、随分前に高校の同級生から聞いた新卒話を思い出した。職場に配属された新卒が電話に出ない。「なんで電話に出ないの?」と聞くと「先輩のほうが電話の近くに居たし、対応も詳しいので(出ない方が当然でしょう)」と言われた、という話。呆れてモノが言えないと当時友人が嘆いていたのを覚えている。

 この話と併せて思い出すのは、先日の飲み会。学生と経営者の方が一緒だった。学生が「就職活動では、自分がより貢献できるところを選んで、ちゃんと評価してもらい、できるだけ高い給料を稼ぎたい」と言うと、間髪入れず経営者の方が「ないよwそんなところ。ないない。新卒が企業に貢献できるところなんて、ない。もちろん人によっては違うよ?でも、大抵ないよ。そうじゃなくて、自分のできること・キャパシティを広げるほうに行動を振らないと。その伸びしろに企業はお給料を出すんだから」と語っていた。

 先に例に挙げた新卒は、先輩が電話対応することが業務上合理的だと捉えたようだ。また後者の学生は、自分が活躍できる場所のうち最も高い評価をしてくれる場所を就職先として求めていた。いずれの話も、社会に出る前後の若者は「自分が今できること」を基準に世界を見ていて、その中で合理的な・高く評価される方を選択する傾向が伺える。

 確かに、できることは多いほうが良い。「英語が話せる」「プログラミングができる」「国家資格を持っている」「教職を持っている」「論文が書ける」「サーベイができる」など、学生の多くは「できること」を増やし、その適応範囲を広げてきたはずだ。さらに、ネットやSNSで様々な知識を身に付け、損をしないように生活を送っているはず。

 当然、スキルや知識量は多いほうが何事も有利だろう。しかし、社会に出てキャリアを積むにあたっては、「できること」や「知識量」はそれほど本質ではない。というのも、金銭は請け負う責任に対して支払われ、キャリアはアウトプットによって評価される。そういうゲームをこれからプレイしていくという事実を、予め知っておいてほしい。先の「責任を学べる場所にいたほうが良い」というアドバイスは、そういう思いゆえの発言だった。

 スキルや知識が本質ではない事を知っておくと「今できることの範囲だけ」で考え働くことが、実につまらなく、勿体ないことだと気づくことができる。それに気づければ、先の例のように「自分より優秀な誰かがやったほうが合理的だ」という発言は出てこなくなるのではないだろうか。単なる労働から、意欲的な仕事へ捉え方を変えるきっかけになるはず。

 ここで少々乱暴だが、できることを軸とした考え方を「スキルベース」としよう。そして、抽象的な課題を解決する考え方を「責任ベース」と呼ぼう。スキルベースの考えから責任ベースの考えにうつることこそ「仕事を覚える」ことだと個人的に考えている。仕事とは、具体的な作業が与えられるスキルベースではなく、結果に対してアウトプットが求められる責任ベースのゲームなのだ。ここで大切なことは、2択ではないということ。どちらの考え方も業務を遂行する上で欠かせない。ただし、スキルベースに偏りが生じると、仕事をするうえで様々な問題が起きるだろう。

スキルベースの問題

 スキルベースは何が問題なのだろうか。答えは当然、契約や職種により変化する。単純作業を求められる工場労働や、単純作業のアルバイトであれば何も問題ない。しかし、多くの大学生がこれから務める仕事とは、ホワイトワーカー職であり、組織で働きながら、知的生産性を求められる仕事だ。

 組織で働くうえで、スキルベースの考えを貫くことは、協調できないリスクになりうる。スキルベースの考えとは極論「できないことはやりません」である。この場合、大きな仕事を進めるうえで、マネージャーが仕事を細かく分け、各々のできる範囲に仕事を区切る必要がある。これは、業務として当然のことに思えよう。しかし、それではいつまでたっても手離れが悪い。常にマネージャーや同僚に依存する、自立しない働き方だ。さらに、仕事は常に例外がつきもの。いざという時に「できないことはやらない」では、チームで仕事はできない。結局、管理コストだけが嵩み、業務の妨げになってしまう。

 さらに、スキルベースの働きぶりは周囲の人から反感も買うだろう。できることの範囲の中だけで世の中を見る、というのは、なにかと自惚れが強いと思われがちである。ナルシシズムだの、プライドが高いだのと野次が飛び、顰蹙を買うこともあるだろう。これも人間関係に問題を生じる可能性が高い。仕事を進めるうえで、様々な障害を作り出してしまうだろう。

 実は、そのような主観的な反応ならまだ、いいほうだ。日本は労働環境を守る力がつよく、未だ情の厚い職場も多い。多少の軋轢があっても、そこまで大きな問題に繋がることはないかもしれない。しかし、より仕事の本質的な要素に注目してみよう。企業とは、合理性で動く組織だ。採用や営業の話であれば、業務に支障をきたす存在は、はねられてしまう。

 できることだけの範囲で仕事をされては、ホワイトワーカー職は成り立たない。特に研究や開発という仕事を進めていくうえでは、できることだけ見ている人材を雇うのは、合理的ではない。できることしかやらない人へ作業は発注するが、免責の大きな仕事は発注しないだろう。スキルベースは多くの仕事の文脈で合理性を獲得できず、就業できない・働き続けられない・案件を受注できないという状況に直結している。

新卒鬱を避けるためにも責任ベース教育を

 自分としては、先ほど説明した新卒の例でも、彼らが自分を優秀だと勘違いして、「それはお前の仕事だろ」とか、「さーてどこに入ってやろうかな」と思っていたわけではないと思っている。また、できる範囲に留まろうと意固地になっているわけでもないだろうとも思っている。つまり自分は、スキルベースの考え方は、個人の未熟さとして捉えていない。

 先に上げた二つの例について、自分の見立てでは、どちらかと言えば彼らは諦めに近い心情だったのではないかと思っている。入ったばかりで何ができるかもわからない。そんな仕事が急に身に付くわけでもない。余計なことをするくらいなら、やらないほうがいい。あるいは、就活をして優秀な人をたくさん見て、この調子で自分がエリートになれるわけでもないとわかった。そうであれば、自分はできる範囲のことを一生懸命やろう、そして、それを”評価してもらえるところを選ぼう”という意味。さらに、「迷惑をかけるくらいなら、やらないほうがまし」「今の現状で最高に評価される環境に身を置こう」と。答え合わせをしたわけではないが、外してもいないと経験上思っている。

 そう考えた時、責任を学ぶことの必要性を強く感じた。できることや興味あることを活かしながら責任ベースの考え方ができるように、なんとか支援する手立てを見出せないだろうか。今の学生はできることや知識のバラエティーが多い。広く浅く獲得された資源を活かしながら責任を担い、仕事を進めていくのは、とても楽しいはずだ。鬱で休職したり、余計なストレスをためたり、そういうリスクは適切な責任の解釈で下げられるのではないだろうか。

 ここで責任を学ぶとは、小さな失敗を重ねながら、人と協調し、情けをもらい、恥をかき、楽しみながら責任を全うする姿勢を身に付けるという意味に近い。仕事は請け負う責任に対して対価が支払われる。あなたのスキルに合わせて対価が支払われているわけではない。ちゃんと責任が全うできれば、個々のスキルは何でも良いことのほうが多いのだ。スキルの質や量に優劣はないのだ。例え学位を持っていようとも、責任を全うできなければ学部卒の新卒と同じだ。それは大学でも企業でも変わらない。そういうゲームをしている、という自覚をどう育めたものか。そうすれば、齟齬や世代間の軋轢を、ほんの少し、無くせる気がしている。

キャリアのはじめは、責任を学んだほうがいい

 責任とは、単純にできる・できないといった合理性の話ではない。責任とは、絶対と置き換えてよい。絶対に何かをやる、何かをやるために必要なことは全てやる。結果が出せずとも、逃げない。そこには当然自分の苦手なものや、できないことを減らす学習・成長までも含まれる。

 どこの組織でもよくある話だと思うが、「なんでこれやらないの?」と言いえば「え?自分がやるんですか?」と返される。その類の反応は、きっと、責任の捉え方に齟齬が生じている結果だと思う。

 しかし、その責任の捉え方を解説し、教育してくれる環境は、稀だ。しっかりと教育する間もなく、多くのバタバタ・デスマーチ、組織間のいざこざに流され、結局のところ多くの人達が責任を学ぶことなく、単なる愚痴に収まってしまう。結果、キャリアは進まないだろう。

 大事なことは、自分もそうだったが、スキルベースのモノの見方とは個人的に合理的な所作であり、一つの学習された賢さなのだ。だから、例え若手ができることだけで働こうとも「他人を見下して反抗している」わけではないと自分は思っている。さらに、若手に対して価値観で納得してもらえる時代ではないのだ。ゆえに「社会というのは、会社というのは、働くというのはこうだから」「責任とはそういうものだから」と責め立て説教するのも、時代錯誤で、効果は薄いだろうと思ってしまう。

 だからこそ、物事の捉え方をスキルベースから責任ベースに学習し直せる環境を選択する必要がある。会社の文化や業務状況を言い訳にせず、少しずつ失敗を繰り返しながら、自立できる環境を選ぶべきだと考えている。

 仕事は、単に手を動かしてアウトプットを出すものではない。相談したり、弱い所を見せたり、相手に歩み寄ったりしなければならない。自分の苦手なことや、できないことに対処しながら進めなければいけない。そうしながら責任を全うしていく訓練を怠ったまま、年を重ねると、柔軟に対応できず周囲に迷惑をかける、お荷物になってしまうだろう。

 それをもし不幸と思うのであれば。あるいは、自分の理想が今よりも高いのであれば、責任というものを早いうちから身につけたほうが良いだろう。自分の理想、あるいは生きていく業界の需要や基準に合わせて、早いうちから身に付けるべきものだと、そう考えている。

 忘れず押さえて欲しいのは、「強い責任感を持て」「責任を全うできるようになれ」と言っているわけではない。「責任を的確に捉え」「責任を全うしようとする」ところを優先して「学んだほうがいい」と主張しているのだ。そこに、人の伸びしろは付く。

 当然、だからといって理不尽な免責を担わせる環境や、責任の押し付け合いが正当化されてはいけない。キャリアのはじめは、そういう余計なノイズがない環境で、責任とは何かを学べるほうが良い。それを一つの理想として、基準として、自分の身を置く環境を選んでみてはどうだろうか。給料や業務内容以外の要素にも、注意が向くはずだ。

責任を学ぶことは、身を守ること

 話は脱線するが、つい数年前の話。大学がやたらとイノベーションを掲げて、学発ベンチャーを建てたり、インキュベーション施設を作るのが流行していた。イーロン・マスクやスティーブ・ジョブズを度々山車にして、散々イノベーションを授業や講演で煽り、学生に起業を促していた。

 自分の周囲でも多くの学生が失敗を重ねていたが、中でも学発ベンチャーのレベル差は目に余るものがあったと思う。もしかしたら、今でもそうかもしれない。その差とは、自社の責任を的確に理解し、やらないことを決め、戦略を組み歩みを進める企業と、「やりたいことは受注案件の傍ら」「仕事は研究の傍ら」で進める、なんちゃってゾンビ・ベンチャー。大学が下手に関わっているので潰れることもなく、細く長く流されていく。

 流されていくだけなら、いいだろう。問題なのは、責任を学ばずに商売を始め、過度な免責を担ってしまい、結局全うできずに裁判沙汰になったり、経営者が精神を病んでしまう例だ。大抵、学発ベンチャーは博士持ちが起業しているため、いい餅が描かれてはいるのだろう。しかし、暗中模索で経営し、自社の都合を優先して折衝ができない。当時学生だった自分では気づけなかったが、今振り返ると、目立った企業はチャレンジではなく、単なる無謀をしていたのだろう。

 学位は立派だ。素晴らしい。教職も立派だ。技術者の資格やIPAの資格だって、十分に立派である。しかし、それと仕事の責任は別ものである。責任を学ぶことは、身を守ることにもつながる。相場を知ることにもつながる。戦略を立てるための材料にもなる。責任の押し付け合いから身を守るためにも、それが何たるかを先に学んだ方がいいだろう。

 企業や職種が違えど、責任とはある程度の型が存在する。学発ベンチャーや大学の研究室のような、暗中模索しか選択肢がない環境では、中々その責任の型、責任を遂行するための業務の型、考え方の型を身に付けることはできない。理由は単純で、そんな時間もお金も余裕がないからだ。さらに言えば、責任ベースな考え方を教えられる人材も居ないだろう。そういう環境に身を置いて活躍できる人間は限られている。多くの学生にはできるだけ、責任を学べる環境を吟味してキャリアを歩み出してもらいたい。

なぜ責任が気になるのか?

 さて、話を戻そう。ここまでで、いかにも自己啓発本にありがちな「スキルベース」「責任ベース」という二つの言葉を出して、キャリアを歩み始める学生に対しメッセージを書いてきた。

 一方で、上述の内容を書き連ねながら、自分はたいそうこの責任について講釈を垂れるにつれ、気持ちよくなり、問題をうやむやにしている気がしてならない。

 少し力を抜いて、考え直してみてほしい。先の例はどうも「責任を理解しないと適切な動機づけができない」事実のほうが問題ではないだろうか。自分はなぜ、こんなことを分別臭く責任について解説せねばいけないのだろうか。

 「責任を理解しないと適切な動機づけができない」というのもまた、貧しさの指標なのではないか、と改めて感じている。少なくとも昔は、責任を過度に意識しなくてよいほどの楽しさや、協調・互助が成り立っていた。自然と身に付けられる環境があったように思う。

 しかし、今の学生の貧しい生活背景やポリコレ全盛の社会情勢からいえば、それらは今、成り立ちづらいものだろう。責任なんて感じずとも、意識せずともお互いが歩み寄る社会が実現できれば、この責任とはさほど意識せずとも問題にならないはずだ。

 こういう、自己啓発本のような記事を読んだら、内容を疑うことも大切だが、なぜそのトピックに惹かれてしまうのかについても、ぜひ熟考して欲しい。このnoteの記事は散文的で、とりとめがない。でも、あなたには何か引っかかるものがあるかもしれない。上手くいってないことがあるのだろうか?損をしたくない信念があるのだろうか。劣等感を抱いているのだろうか。往々にして、「なぜその問題に対処しなければいけないのか」は見落とされがちである。

助言か説教か

 長々と散文を書いたが、ここまでの文章は、責任についての、あくまでも一つの解釈として捉えてもらいたい。正解は無い。が、世の中決まりごとは多々ある。その決まりごとに合わせていくうえで、読者の選択肢が一つでも増えればと思い書き連ねてきた。

 自分は、この記事が単なる説教と捉えられてしまうことを恐れない。いくらでも揚げ足は取れよう。表面上の反応は好きにしてもらえばいいが、自分が注目しているのは結局、あなたが何をしたいか、である。あなたは、何に責任を持つようになるのだろうか。できれば、責任を過度に意識せず、責任を全うできるような人材になって欲しい。

 以下に解題の要約を書いた。自分の真意としては、このような解釈である。これが、いつか誰かの一助になれば幸いである。

お題:
「アドバイスがあるとすれば、外に出れるタイミングで外に出たほうが良い」
解題:
環境に依存してはならない。人間そんなに違いが無いから、出力を変えるには環境変えて入力変えるのが一番簡単。そのためにも、人様に迷惑をかける前に、自分で必要以上に苦しむ前に行動を起こすべし。

お題:
「アドバイスがあるとすれば、責任を学べる場所にいたほうが良い」
解題:
自分ができることの範囲で過ごすことなく、成長できる環境に身をおくべし。責任を持たなければ成長はできない。ただし、その責任はできるだけ自分の意思に立脚したものであるべし。結果は自分次第。



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