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斜陽の邦で転がる日々は、あぶく。

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最近の記事

「できそう」という感覚を奪うのは、今時とても罪深いことなのだろう

前回の投稿に続き。  若手育成において「できそう」という感覚を失わせてしまうことは、今時とても罪深いことなのだろうと思っている。なぜなら、できそうという感覚を奪うことは、当人の成長の機会や労働の動機を奪うことであり、さらに、労働の動機付けや成長の管理までもがチームマネジメントに求められるようになってしまったからだ。  「できそう」という感覚や伸びしろ、遊びしろがあるからこそ、期待を抱きながら目の前の業務に取り組めるのだろう。その期待は、今時、強い動機付けなのだ。本来、個人

    • それでも、いい子はやめられないようだ

       怒涛のイベントシーズンを終えて、ようやく落ち着いた生活に戻った。イベントの会期中、若手の子がダウンしてしまい、その様子を見てふと思ったことがあったので書き残しておく。  最近入ったZ世代くらいの若手社員がいる。イベント要員として採用され、海外のチームと準備を進めていたが、業務が手に負えず会期中ずっと体調を崩し、全日欠勤してしまった。  体調を崩しても、この子はいい子だった。会期中、関係者への連絡に必ず「申し訳ございません、〇〇について」「お忙しいところ申し訳ございません

      • もう、青春なんてないだろう

         数年前、よく聞いていた曲がいくつかある。毎晩11時半くらいまで仕事して、湾岸沿いの職場から自宅まで帰るときに聞いていた曲。現場作業で、港湾エリアから深夜帰るときに聞いていた曲。仕事の効率や価値よりも、作業に打ち込むことを楽しんでいた数年前。それぞれ、聴けば当時を思い出して、その時の心情に思いを馳せることができた。  ところが先日、iTunesのシャッフル再生でその曲が流れてきたとき、自分の身体の反応が変わっていることに気付いた。なんか昔、聞いていたなぁと思う以上の回想はな

        • 自分を取り戻すとは、いったい何を取り戻すというのか。

           ふと目に入った「自分を取り戻す」という広告文。一体、何を取り戻すというのだろうか。”やりたいこと”をして、今抱える問題から解放され、自分らしい生活を目指そう、そのためにこちらの商品!という広告の設計意図は想像できるが、それはさておき。この「自分を取り戻す」というのは、耳障りの良さが全面に出ており、出オチ感がある。  とはいいつつも振り返ると自分も確かに、昔の”自分を取り戻し”たような感覚を得たことがある。それは、昔の環境に身を置いたり、過去の習慣を実行したとき。昔を思い出

        「できそう」という感覚を奪うのは、今時とても罪深いことなのだろう

          出稼ぎ外国人は、責任が理解できなかった

           最近知人が、外国人の技能実習生を支援する事業をはじめた。聞くところによれば、アジア諸国から来日した実習生は、実習先の企業でいじめにあったり金銭トラブルを抱えたりと、様々な問題を抱えるらしい。この話を思い出すような、外国人に関する出来事が最近自分の周りでも生じた。記憶に新しいうちに、自分が感じたことを書き残そう。  要するに、迷惑な外国人の元同僚の話。彼は中央アジア出身で、日本の四年制大学を卒業後、国内大手のコンビニチェーン会社に就職した。ところが、店長を務めていた時に挫折

          出稼ぎ外国人は、責任が理解できなかった

          現代社会における「〇〇力」の表現は成長の視野を狭めているのではないか

           「〇〇力」という言葉を、よく目にするようになった。昔から使われている表現なので、全く新しい表現というわけではない。一方で、昨今の「〇〇力」表現にはどこか、不健全さや社会の余裕のなさが感じ取れる。そんな「力」の表現についての雑考を書き留めておく。  「〇〇力」という表現は、受けてに対し「問題を解決する手段」という印象を与える。少なくとも、この記事の対象である「〇〇力」という表現は、問題を解決するための方法論として使われている。「”コミュニケーション力”を育みましょう」「社員

          現代社会における「〇〇力」の表現は成長の視野を狭めているのではないか

          解題「責任を学べる場所にいた方がいい」という話

           先日のこと。自分の元指導教官が学生に「アドバイスがあるとすれば、外に出れるタイミングで外に出たほうが良い」と言っていた。その学生に、後で個人的に「アドバイスがあるとすれば、責任を学べる場所にいたほうが良い」と伝えた。いずれも、学生のキャリア相談を受けた時の話である。  実は、自分の発言は、当の学生の未熟さを指摘したものではなく、さらに本人のみに特別発言したわけではない。周りに居合わせた学生に対しても同様に、できるだけ本質的な意見を述べたつもり。この記事では後者の「責任を学

          解題「責任を学べる場所にいた方がいい」という話

          HSPと加害者になりたくない人達

           先月、Kindle Unlimitedでイルセ・サン著のHSP本が追加されていたのに気づき、ダウンロードして読んでみた。”敏感な人”(Highly Sensitive Person)について解説が書かれており、半日もあれば読み切れる量だった。読後の感想と、最近の関心ごとについて書いておこうと思う。  著書の内容をざっくり言えば、”すごい敏感な人”の解説。この「敏感」というのが多様で、物理的な刺激(音や光)に強く反応してしまう例や、人の所作や言葉遣いを過剰に察し疲れてしまう

          HSPと加害者になりたくない人達

          クリエイティブ界隈の労働倫理と生産性について

          先日、このようなツイートがTLに流れてきた。  昨年、クリエイティブ関係の仕事に参加した。徹夜も休日稼働もある現場だったが、その現場では誰も「徹夜しててでも良いものつくります!」と明言していたわけではない。しかし、実際の言動がそう語っていたのは事実だった。そういう人々と一緒に働いた体験から、このツイートに書かれているようなカルチャーが存在することは、どこか納得できてしまう。  このツイートでは直接書かれていないが、徹夜の有無というよりも、過剰な滅私奉公せずに働くことが「人

          クリエイティブ界隈の労働倫理と生産性について

          千葉先生のエッセイを読んで

          昨年のメモやツイート・ブログ・飲み会話を省みると「もちろん言い切れないんだけど」「すべてがすべて、そういうわけじゃないけど」と言う機会が増えたと思う。 例えば、会社で大学生の傾向について聞かれた時。大学の後輩から、就活について聞かれた時。アカデミアと企業の違いについて会話する時。一つの傾向や解釈を伝えるときに「みんながみんな、そうとは言えないんですが」と添えて説明することが多かった。 一方で、最近のYoutubeやテレビでも識者が解説する時「必ずしもそうだとは言えないんで

          千葉先生のエッセイを読んで