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自分を取り戻すとは、いったい何を取り戻すというのか。

 ふと目に入った「自分を取り戻す」という広告文。一体、何を取り戻すというのだろうか。”やりたいこと”をして、今抱える問題から解放され、自分らしい生活を目指そう、そのためにこちらの商品!という広告の設計意図は想像できるが、それはさておき。この「自分を取り戻す」というのは、耳障りの良さが全面に出ており、出オチ感がある。

 とはいいつつも振り返ると自分も確かに、昔の”自分を取り戻し”たような感覚を得たことがある。それは、昔の環境に身を置いたり、過去の習慣を実行したとき。昔を思い出しながら行動まで伴うと、”取り戻した”感覚がある。そんな気がした。

 もし仮に、昔の環境やクセを再現することが”自分を取り戻す”ことだとしたら、結局のところ「自分を取り戻す」とは、過去の経験に依存するということだろう。良い過去を持っていればいいが、「お前に取り戻すほど満足な”自分”があったのか」「いつまで過去引きずっているんだ」と批判が残るのは、割と普通ではないだろうか。

 ちなみに、「自分らしく生きよう」という言葉もよく見る。でも、今の時代「自分らしく生きよう」なんて、一つの道を決めて生き様を貫くような覚悟ではなくて、SNS映えや経済力が過度に優位な社会で「自立した個として認められたい」という、承認欲求みたいなものだと思う。

 広告文一つとって、社会の不健全さを指摘することはできない。広告は、社会を反映するものではなく、社会を観察した人が制作した作品でしかない。だからこそ、広告の作成者が何を意図して訴えを制作したのかについて考え、作られた”空気”には敏感でありたい。それは、都会に生きる上で欠かせない能力だと思う。

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