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もう、青春なんてないだろう

 数年前、よく聞いていた曲がいくつかある。毎晩11時半くらいまで仕事して、湾岸沿いの職場から自宅まで帰るときに聞いていた曲。現場作業で、港湾エリアから深夜帰るときに聞いていた曲。仕事の効率や価値よりも、作業に打ち込むことを楽しんでいた数年前。それぞれ、聴けば当時を思い出して、その時の心情に思いを馳せることができた。

 ところが先日、iTunesのシャッフル再生でその曲が流れてきたとき、自分の身体の反応が変わっていることに気付いた。なんか昔、聞いていたなぁと思う以上の回想はなく、なんとなく飛ばしてしまった。飛ばした後で、どこか自分を俯瞰したような感覚があった。もう、不安と期待が混ざり合って、いろんなことを思いながら一心不乱に没頭する、なんてことはないのだろうなと思いながら。

 矛盾するように聞こえるかもしれないが、それくらい自分は豊かになったというか、余裕を持てるようになったのだと思う。過去を思い出して共感し、今この時と重ね合わせて、同じように目先のものに飛びついて、とりあえず”仕事”をこなすことを優先することはない。過去の感情に浸り、自分と向き合ったり慰めることもない。成長というよりは、過去の自分との距離が離れたのだと思う。

 数年前と比べ、当然、経済的にも社会的にも変化した中で生活している。何かを一生懸命に追うよりも、追った先のものに対し負う責任が増えた。すると、熱中することよりも、様々な観点で事実現象を見つめるようになる。だからこそ、狭窄的な考えがなくなり、自分の経験も数あるうちの一つと捉え、過去の自分との距離がとられたのかもしれない。こう書くと、どこかまだ青臭く聞こえるけれど、このように人生の節目を感じることは最近の多忙ゆえなかったので、書きとどめてしまった。

 もう、青春なんてないだろう。そう言えば、勢いのある”大人”は生き様を語ってくるかもしれない。甘い、人生青春だ、と叱ってくるかもしれない。しかしここでは、人生に勢いがなくなったことや、下向きになったことを言いたいわけではない。自分の感情に素直になりながら熱中できるだけ、無垢な時間は過ぎ去ってしまったという意味で、もう青春”なんて”ないと思うのだ。失ってしまってから見返すと、無駄に苦しんでいたり、自分は未熟だ、損をしていたと苛まれた経験ですら、大切にしたい気持ちになってくる。

 そう思えるのも、当時の体験に思い出の曲の数々が添えられていたからかもしれない。追い込まれながら”思い出の曲”に支えられていた生活は、決して輝いていたわけではなく、はっきりと苦悩を描けるものでもない。それでも当時の心境に寄り添い、時折思い出し、心の支えにできていたのは、音楽のおかげだと思っている。

 特別な思い入れがすっと消えてしまっても、当時聞いていた音楽はまた今後の人生に、そっと、添えられていけばよいなと思っている。

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