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出稼ぎ外国人は、責任が理解できなかった

 最近知人が、外国人の技能実習生を支援する事業をはじめた。聞くところによれば、アジア諸国から来日した実習生は、実習先の企業でいじめにあったり金銭トラブルを抱えたりと、様々な問題を抱えるらしい。この話を思い出すような、外国人に関する出来事が最近自分の周りでも生じた。記憶に新しいうちに、自分が感じたことを書き残そう。

 要するに、迷惑な外国人の元同僚の話。彼は中央アジア出身で、日本の四年制大学を卒業後、国内大手のコンビニチェーン会社に就職した。ところが、店長を務めていた時に挫折し、バックレのち退職。その後はジョブホッパーで食いつなぎ、結婚と3児に恵まれ、2-3年ごとに昇給を狙い転職していた。金稼ぎの話が好きで、よく「外人は日本でこうやって稼いでる」という話をしていた。暗に「日本人のように社畜をせずとも幸せに生きる術はあるんだ」と、空虚な正義感を主張しながら。

 彼は自ら身を引き、勤続1年も経たずに転職したが、実際のところはクビに近い状況だった。人あたりは良かったが癇癪持ちで、業務態度も表面をつくろうのみ。失敗を繰り返し、成果も出なかった。給与が管理職クラスに高額であった点と、周囲の人間との協調性の無さから、会社は次の人材を見つけ声をかけていたところ、退職届を出してきた。勤続11か月。前職の有休消化中に手伝いをしていた時期と、今回退職時の有休消化を含めて、SNS上では13か月務めたことになっている。

 そんな彼の口癖は「シンプルに仕事をする」だった。ことあるごとに日本の文化を引き合いにだし、お客様第一は世界標準ではない、そこまでのクオリティは必要ないと主張しては、顧客に対し粗末な仕事をして指摘され、準備をせずに現場に行き失敗し怒られ、新卒のように仕事をしていた。そして上司や同僚からの業務フィードバックに対して「環境が悪い」「客が悪い」「自分が正しい」「指図をするな」と言い張り、社内ではすぐに駄々っ子のトラブルメーカーとして噂が広まった。

 冒頭に紹介した知人に言わせれば、建築現場では日常茶飯事のことだそう。安全や衛生、品質を大切にする日本の現場では、仕組みでリスクマネジメントをするが、それを理解できず適当に荷物を置いたり、業務手順をごまかしたり、嘘をついたりといったことが頻発するそうだ。日本人の職人も手を焼き、よく喧嘩をするという。「逆ギレなんてまだマシなほう」らしい。

 同僚の話に戻そう。ここ半年近く同じチームとして彼を観察し、1つ気付いた事があった。それは、彼が頑なに自分の意見を強く主張し続ける背景には、日本文化への適合に対する絶望があるように見えた。彼はしきりに現実を単純化して、シンプルに仕事をすべきと言い張り、すべき仕事を見落とし、事実なにも達成できなかった。その要因は、能力の欠如もさることながら、それだけではない。彼のパーソナリティの奥深い部分に、日本文化への適合を拒絶する心の働きが見出せたのだ。

 「日本文化への適合」と言えば、少々大げさかもしれない。少し噛み砕いてみると、ここで言う日本文化とは、ほぼ、仕事における「責任の理解」に等しい。出稼ぎ労働者の彼には、日本の商文化における責任を理解することが難しいのではないか。

 業務に対する責任の一般論として「言われたことだけやっている」のは仕事にはならない。自分のアウトプットに付加価値がでず、競争の激しい環境では生き残れない。コンビニで弁当を売ること一つみても、弁当だけ売っていては商売できない。箸もつけ、スプーンも付け、なんなら決済方法まで多様に準備し、レンジで温めもする。顧客のことをできるだけ考えて、顧客の消費活動に対する障壁を限りなく取り除き、売上を確たるものにする。そのように幅広く責任を負うからこそ付加価値が生まれ、商売が成り立つのが日本だ。特に品質に関しては、誇るべきほどに日本人が敏感であるからこそ、厳しい規則や制度、準備が必要となる。

 さらに、多くの日本人は、周囲の人達との調和に責任を強く持つ。だからこそ、自分の意見を強く主張し癇癪を起こすのではなく、相手の気持ちまで考えて謙虚に発言する。自分の意見を言い張るのではなく、敬語や忖度といった言動を潤滑油として利用し、相手の話を受け入れながらコミュニケートする。これは、滞りなく周囲と調和する点に責任を持つゆえだ。

(ここでいう責任とは、”絶対”、あるいは”絶対”を達成するための絶え間ない努力とも等しい)

 彼が在籍している間に生じた様々な対立から、我々は、彼を採用する際に「責任への理解力」を見抜けなかったのだとわかった。そして、日本人の採用ではその責任への理解力が、曖昧ながらも文化によって担保されていることを痛感した。今後は、そのような理解力を見抜く基準の策定について改善案を出すのだろうか。あるいは、理解力を育む教育に注力するのだろうか。いずれにせよ、答えは一意に定まらない世界の話である。


 ところで、同僚の彼をみても、知人から聞いた出稼ぎ外国人の話を聞いても、なぜ癇癪を起こしたり暴れたりするのか疑問である。今回、そういう人材に直面し、対処した際の考えとしては、彼らはやっぱり”人生1回目”なんだな、である。これは島田紳助のネタだが、そう思えば仕方がないと割り切れた。骨折り損のくたびれ儲けで疲弊はするが、そう思えば、機械的にエモーショナルモンスターを処理できたのも、今回得たノウハウだった。

 出稼ぎの外国人は、稼ぐことで頭がいっぱいなのである。出稼ぎの外国人は、夢見ながら生活を営むだけで精一杯なのだ。日本に学びに来る、自己実現のために来る留学生やアカデミアの世界とは異なる。出稼ぎの外国人にとって、責任を理解し、周囲と調和することは難易度の高い行為だと学んだ。

 外国人の労働が今後増えていくのは、どこの業界も同じことだろう。そして、今回のような経験をする日本人も増えていくことだろう。しかし、彼ら出稼ぎの外国人を甘やかしてはいけない。改めてそう感じた。

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