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現代社会における「〇〇力」の表現は成長の視野を狭めているのではないか

 「〇〇力」という言葉を、よく目にするようになった。昔から使われている表現なので、全く新しい表現というわけではない。一方で、昨今の「〇〇力」表現にはどこか、不健全さや社会の余裕のなさが感じ取れる。そんな「力」の表現についての雑考を書き留めておく。


 「〇〇力」という表現は、受けてに対し「問題を解決する手段」という印象を与える。少なくとも、この記事の対象である「〇〇力」という表現は、問題を解決するための方法論として使われている。「”コミュニケーション力”を育みましょう」「社員の”結束力”を強固にして...」「個々の”交渉力”を高めて...」といった具合に。

もう少し例を出すと

「あなたは受験で国語の点数が低いのですね。”国語力”を上げましょう。国語力を上げるために、この教材と勉強法を実践してください。」

本屋平積みの受験用教材

「あなたは人生でたくさんの問題を抱えているんですね。悩ましいでしょう。そんなあなたは、”問題解決能力”を上げましょう。問題とは理想とのギャップです。言葉にして細かく分けて対処しましょう。」

電車内広告されていた書籍

 今の日本はこういう”お笑い”が溢れているように思う。毎年、色んな「力」が創造され、その都度人々の不安が煽られ、書籍やセミナーが買われて市場が潤う仕組みなのだと想像する。

 「力」と表記することで、鍛錬すれば身に付けられるものであると伝え方ができる。これは「〇〇する技術」も同様だろう。直面する問題に対して、取る”べき”手段を与える伝え方だ。また受け手にも、その力を身に着けることで成長し市場価値が上がるといった価値観が根底にあるのだと思う。

 しかし、問題の解決は能力だけの話なのであろうか。また、成長とは能力だけの話なのだろうか。何かしらの問題解決には、その「力」よりも環境や人間間の相互作用に支配的な要因が隠れている場合もあるのではないか。あるいは、「自分の能力以外の解決方法」があるのではないか。環境や他人に依存する要素を見直すほうが、「技術」や「力」よりも解決方法として合理的なのではないか。

 「力」という表現を使うことで、何かしらの問題に対し「力」があれば解決でき、その力を鍛えることが努力であると、多くの人が捉えてしまうのではないだろうか。そして、目の前の困難や課題が、物理現象のようにシンプルな力と結果の対応関係だと思い込んでしまうことも考えられる。しかし、実際の要因は様々あるはずだ。現代社会の「力」表現には、そんな視野を狭める一面があると感じるくらい行き過ぎた表現が目に付く。
 
 当然ながら、暗黙知に対し能力を分解することで、再現性の高い業務フローを目指すといった目的で、能力表現を駆使することは重要なことである点に変わりはない。見立てを様々に変えながら、必要な要素を分析し、力と捉えることは職業訓練の基礎である。しかしながら、昨今流行している力表現は、それとあまりにも乖離して単純化されてしまい、単なるエンタメとして消費されていると感じる。

 さらに、力と表記することで、どうも、学ぼうとする人間に劣等感を喚起させてしまうようだ。学力偏差値やスポーツの記録のように、誰にでも分かる形で評価しているわけではないが、優劣というものが曖昧にも合意形成されてしまい、明示されないまま、勝手に過信したり劣等感を抱く姿も散見されるようになったと感じる。

 随分前の事だが、AbemaTVの番組で格闘家の青木真也選手が出演されていた。格闘技や護身術について意見を求められた時、彼は「格闘技が護身術になるとか、格闘技をやっていれば暴漢に立ち向けるとか、所詮タラレバなんです」と言っていた。ふと、「〇〇力」にも同じことが言えるのではと思った。

 巷に溢れる「〇〇力」「〇〇する技術」などの方法論も、所詮タラレバではないだろうか。そのタラレバに縋りたくなるような不安を煽り、書籍や高額なセミナーを購入してもらえそうなタイトルをつけ発信する。損した感じを抱かないように、ある程度綺麗なフレームワークを並べておく。

 当然、そこから得られる発見もあるはずだ。だが、巷に「〇〇力」が溢れだすと、若年層にとって世間は、身につけなければならない能力が無限にある世界に見えてしまうのではないか。どんどん生きづらい世界を作り出しているのではないか、とも思ってしまう。

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