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HSPと加害者になりたくない人達

 先月、Kindle Unlimitedでイルセ・サン著のHSP本が追加されていたのに気づき、ダウンロードして読んでみた。”敏感な人”(Highly Sensitive Person)について解説が書かれており、半日もあれば読み切れる量だった。読後の感想と、最近の関心ごとについて書いておこうと思う。

 著書の内容をざっくり言えば、”すごい敏感な人”の解説。この「敏感」というのが多様で、物理的な刺激(音や光)に強く反応してしまう例や、人の所作や言葉遣いを過剰に察し疲れてしまう例が紹介されている。いずれの症状も主観評価によるものだが、それだけではなく脳の反応範囲等を測定し定量的に、医学的に調査されているらしい。ざっくりとではあるが、この本を読んでHSPの全容について理解することはできた。

 さて、HSPの諸症状や実態について細かな点は抑えきれていないものの、この敏感な人達に関する本をなぜ手に取ったのか読後思い返すと、表題の通り「加害者になりたくない」という思いが最近増えたのと、周りにもそういう思いを抱いている人が増えたからだった。

 例えば、アルバイトがHSPだった。指示を出したら違うことをした。本来であれば注意すべきところだが、相手は”HSPかもしれない”という場面は十分有り得る。特に、HSPという概念・言葉が出てきてしまった以上、単なる個性・性格ではなく、特別ケアする必要性を簡単に説かれてしまう。人を使うという立場は、今まで以上に加害者になるリスクを孕んでいる。

 少なくとも、自分はHSPではない。そして、相手がHSPかどうかは、自己申告でもしてもらわない限り、わからない。この本を読みHSPに対し理解を深めた一方で、HSPに対するコミュニケーションを考えると、自然とHSPではない人のほうが加害的になりやすい構造なのだなとも理解した。音や臭い、言葉遣いや所作に気を配ることの必要性を理解できたと思う。

 ここで一旦別の話になるのだが、最近身の回りに「加害者になりたくない」という人達が増えたと感じている。自分の意見や主張を伝えることよりも、相手を傷つけるかもしれないという思いから、行動を思いとどまる人達が増えたのだ。先日もある大学の先生の紹介で学生と会話をした際、後輩の指導は一切しない、したくないという声を聞いた。「困ってれば答えるけど、何か余計なこと言って傷つけちゃうのも嫌だし、オンラインでうまく伝わらないことも多いから」「プレッシャーを与えたくないから」とのこと。個人的には不健全なコミュニケーションだとは思うものの、HSP本を読んだ後改めて考えると、この風潮は今後強くなるのかもしれないと思った。

 どこに不健全さを見出すかと言えば、当然この「加害者になりたくない」という一心で意思疎通や相談の機会が失われている姿である。ここでいう相手を傷つけたくない」「加害者になりたくない」というのは、「その時、その場で」という意味合いが強い。たとえ先々それで困難を迎えることが見えていたとしても、その場の会話なりチャットなりで相手を傷つけたくないから、言わないという姿勢である。コミュニケーションの動機が目先の利害に依存している点が実に不健全である。

 さらにいえば「相手や自分を段階的に理解していく、共に成長していく」という観点の欠いた考え方でもある。誰でもはじめから相手のことを知っているわけではない。どんなに気を使っていても、齟齬は生じるもの。相手を全く不快にさせず、毛繕いのようなことばかりしていては、仕事も趣味もプライベートも、何一つ上手くは行かないだろう。

 そういう観点で改めて読み返すと、HSPの本も、処世術に加えてどう成長するか・どのように社会へなじんでいくかという観点がもう少し欲しかったなあと感じた。自分が不快にならぬように、対処する術を説くものはこの本以外にも多い。距離を取ろう、自分の時間をつくろう等多々あるようだが、それはあくまで、人生を生きていく上での付け焼刃でしかないな、とも思う。理解してもらうために、周囲へどう伝えていくか。周囲はどう反応することが望ましいか。当事者と他者間で何が問題になりやすか等、今後の研究や関連書籍が出てくるのを待ちたい。

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