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「願う」ことと、「願いごと」。

昨日の春分の日は、とても大切な一日だったようですね!
何人かのクリエイターさんたちの記事で、「宇宙のお誕生日」であることや、「願いごとが叶う日」「浄化の光がMAXになる日」であることなど……今年の3月20日が、とても大切な日であることを読みました。

せっかくですから、わたしも朝からお家の掃除をして、一日のなかでも、特に「願いの叶う瞬間」であるという12:06を楽しみに待ちながら、心穏やかに過ごしました。
自分の言葉できちんと説明することはできませんが、星の配列、地球の持つ波であるシューマン共振、また古代から大切にされてきた春分の日であることなどの関係から、その時間、わたしたちの「願い」の周波数が波にのりやすく、拡大しやすくなるらしいことはなんとなく理解できました。

ちょっと個人的な話になりますが……わたしは子どもの頃から、「願いごと」というものが苦手でした。記憶にある限り、神社などで何かを願ったことがありません。
神社にいくのも、そこで手をあわせるのも好きなのですが、何かを「願う」のはちょっと苦手。
子ども心に、「誰かに願いを叶えてもらう」という感じが、どうもしっくりきませんでした。たとえ相手が神様といえど、自分の願いを「叶えてもらいたい」とはどうしても思えず。
願いがあるなら自分で叶えればいいし、神様が何か与えてくれるなら、どんなことであっても、ただ、ありがとうと感謝をしたい。それが素直な感覚でした。

自分以外の人たちが、神社で願いごとをするのは、ちっとも嫌じゃないんですよ。
「そうしたい」と自然に感じられるなら、その通りにするのがよいと心から思っていました。
でも、わたし自身が強要されると、どうしても、少し辛いなと感じました。
たとえば、神社にお参りしたあとに、「何をお願いしたの?」ときかれたり、七夕で短冊に、何か願いごとを書かなければならなかったり、遠足や運動会の前にてるてる坊主をつくることを強いられたりすると、少し胸が苦しくなりました。
(「願いごと」は、したくないなあ……)
おとなになったいま、こうして文章にして伝えることはできても、子どもだった当時、それを上手にまわりに伝えるのは難しいことでしたので、七夕の短冊などには、「世界のみんなが幸せですように」と書いたりして、お茶を濁してきました。

そんなわたしですから、「願いごとが叶う日」を目の前にして、少しばかりの戸惑いがありました。

「願い」そのものが嫌いなわけではないのです。むしろ大好きです。
なにしろ世界は「願い」なくしては始まりません。

コップの水を飲むにも、「コップの水が飲みたい!」と願わなくては飲めないし、近所のスーパーに買い物にいくにも、「買い物にいきたい!」と願わなくては、家をでることもできません。
身近な生活必需品も、どこかの先人が、「こういうものがほしい」と願ってくれたからこそ生まれたものだし、作品だってもちろんそうです。書きたい、つくりたい、という願いがあるから形になる。

だから、「願い」はたからものだと思っています。あるいは、世界に花を咲かせる種のようなもの。
世界は「願い」から生まれている。

にもかかわらず、「願いごと」となると、どうして苦手だと感じてしまうのか、長い間、自分でもよくわからずにおりました。
それが、ごく最近、ふと心に浮かびあがってきたのです。
心の深いところ、水の底に沈んでいたものが……水面に浮かびあがってきて陽の光を浴びている!
おおおお!と、どきどきしました!
そして、目の前に浮かびあがったその違和感の正体を、陽の光のもとで眺めてみれば──それは拍子抜けするほどシンプルなことでした。

なんのことはない、わたしは「願い」を、勝手に別のものと勘違いしていたのです。
いうなれば、「願いもどき」ともいえるものを、「願い」であると思い込んでいた。

たとえば、「試験に合格したい!」というのが「願い」だとすれば、「試験に合格したいという願いを叶えてほしい!」と思うのが「願いもどき」。
「健康でいたい」というのが「願い」だとすれば、「健康でいられるようにしてほしい」と思うのが「願いもどき」。
似ているようで、全く違う。

わたしはたぶんずっと、「願いごと」とは、神様から何かを「もらう」ことだと考えていたんです。
「健康でいられなければ困るから、神様、健康を与えてください」
そういう思いを「願い」だと思い込んでいた。
でも違った。本当は、ただ願えばよかったんです。
「健康でいたい」と。
まるで、近所のスーパーに買い物にいくときみたいに、ただ、「いきたいなあ」「ほしいなあ」と願えばよかった。
神様から健康をもらうのではなくて、「健康でいたい」という「願い」を、ただ神様に手渡せばよかった。

「願い」は、たからものであり、美しい花の種です。
だから、それは、わたしから神様へのプレゼントだとすら思えます。
「願い」とは、「もらうもの」ではなく「贈るもの」でした!
そんなに素敵なことだと、早く氣づいていたら、たくさんたくさん、たーくさん、願いごとをしてきたのになあ!

おかげで、すっきりした、きらきら氣分で、昨日の大切な一日を迎えることができました。
庭のお花を少しばかり部屋に飾り、いつもよりすっきりさせたリビングで、お昼過ぎ──わたしの「願い」を、心を込めて、世界に、宇宙に手渡しました。
昨日は宇宙の誕生日だともきいていたので、「お誕生日おめでとう」の言葉を添えて、わたしの「願い」をプレゼントしました。
「願う」って、なんて清々しいのだろうと──ちょっと感動いたしました。

宇宙にプレゼントはいたしましたが、もちろん「願い」は、いまもわたしの手元に残っています。物質でできたプレゼントとは違い、誰に渡しても、何度渡しても、それは消えてしまわないのです。
むしろ、「渡す」たび、「願う」たび、「願い」の持つエネルギーが大きくなるのを感じています。

実はこれ、「願い」を「願いもどき」と混同してしまうと、ずいぶん違ったことになるのだと思っています。
「願いを叶えてほしい」と神様に伝えることは、叶える主体が、「自分から神様に移る」ということです。
ですから、「願いを叶えてください」と唱えるたび、その「願い」の持つエネルギーはその人から失われ、神様に移っていく。それって結局、その「願い」から自分が遠のくことになるのではないかしら……とわたしには思えるのです。

少々理屈をこねましたが、なにより、ただ純粋に「願う」ことのあまりの清々しさに、すっかり心打たれています。
これから毎日、小さなことも、重要なことも、ひとつひとつ大切に願ってみようと思っています。
願うたびに、お花の種が蒔かれるのだとしたら──ひとまず我が家を隅から隅まで、お花畑にしてしまいたい氣分です!



こちらの記事に、数週に渡り、3つのコングラボードが届きました。スキをくださったみなさま、本当にありがとうございました!↓↓↓

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