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ぱにゃにゃんだ!そして、にゃんのはなしですか?(#創作大賞感想文)

「頑張ってね」。
日常の、あちらにもこちらにも飛び交う言葉。
相手を思うとき、心からの応援を込めて使いたくなる言葉でもありますし、とても使い勝手のいい言葉でもありますが、同時に、どこかためらいを覚えながら使われることの多い言葉……でもあるように感じています。

「頑張って」と伝えることで、相手に何かしらのプレッシャーを与えてしまうのではないか……そんな氣持ちがつきまとう言葉だからだと思います。
特に、言葉に敏感な方の多いnoteの世界では、「『応援したい』でも、相手を無理に『頑張らせたいわけではない』」……というふたつの思いの間で揺れるnoterさんのお姿を、たびたびおみかけしてきました。

わたし自身、同じように感じておりましたので、「頑張って」にかわる、なにかいい言葉があったらいいのに……と、ずっと思って過ごしていました。
そして、つい最近。

ぱにゃにゃんだ。

この言葉に出会いました。
なんとラオス語で、「頑張って」にあたる言葉なのだそうです。

かっ、かっ、かわいい。

嬉しくなって、コメント欄で何人かの方にこの言葉をお贈りしたら、みなさん氣に入ってくださったようで、数日のうちに、あちらこちらの記事やコメント欄で、この言葉を散見するようになりました。
言葉の力ってすごい!
そして、noterのみなさんが言葉を楽しむ力ってすごい。
それを、しみじみ嬉しく感じています。

わたしが「ぱにゃにゃんだ!」に出会ったのは、この秋に、ラオスを訪問する予定があって、それにあわせていろいろ調べ始めたからなのですが、この素敵な言葉は、どうも10年ほど前に、NHKの「ゴー!ゴー!キッチン戦隊クックルン」という番組で取りあげられ、歌にもなっているようです。
ですから、それをご存知の方にとっては、懐かしく感じられる言葉かもしれませんね。

他国の言葉が、思いがけず、わたしたち日本人の五感を刺激してくれることってありますよね。
ぱにゃにゃんだ、の他にも、

あおちんあおちゃん。

こんなラオス語があります。
意味は、なんと、

一生懸命に。

なのだそう。
個人的には、もう泣きたくなりました。
だって、「一生懸命、頑張ってね」は、

あおちんあおちゃん、ぱにゃにゃんだ!

となっちゃうわけですから!
(文法がわからないので、実際には違うかもですが)

これから、身近な人やnoterのみなさんに、「あおちん!」とか、「ぱにゃにゃ!」とか、ついお伝えしたくなりそうです。

更に。
ラオス語で、

にゃん?

といったら……

なに?

という意味になるのだそうで、驚きました。
つまり、つまり、

にゃんのはなしですか?

と問えば、

なんのはなしですか?

と問うのと同義だと……そういうことです。
(えええええ……!)

もうびっくりです。

「なんのはなしですか」
noteの街で一大旋風を巻き起こしたこの言葉に初めて出会ったとき、わたしは思わず(ああ、いい言葉だなあ)と、心のなかで声にしました。
この言葉、疑問形であるわりに、実態としては「なんにもたずねていない」のです。

なにをきいているのか、なにをききたいのかさえ、この言葉は、なにひとつ提案していない。
「なんのはなし」なのか。
そこから相手に丸投げです。
相手を煙に巻くようないたずら心を想起させるところも含めて──決まった枠や束縛が何より苦手なわたしにとって、とても居心地のよい言葉との出会いでした。

さらに、この言葉がハッシュタグとともにnoteの街に拡散し、「なんのはなしです課通信」が「発行」されるにいたって──わたしは、この言葉の提唱者であるコニシ木の子さんの思いに、「ぱにゃにゃんだ!」とエールを送りたい氣持ちになりました。

その通信の文章から、一部引用いたします。

noteに三年いると、居なくなる人多いです。好きで書いていても、他の方と比較したり嫉妬したりばっかりです。私は全然noteの中心にもいませんので、何かを企画しようとか共同マガジン主催しようとかも全くありません。

ただ、自分の生きた証と日常を文学にして、文体や思想を記して書くのが好きなだけです。

楽に続けて書けるのが一番だと思っています。

唯一、この「なんのはなしですか」はnoteの一つのジャンルになると考えていて、記事の助けになると本気で思っています。

「なんのはなしですか」は書いている記事の結末や、結論もいらないのです。それを素人と思うかも知れませんが、それが集まったら面白いと本気で思っています。人の思考や思想の途中のものばかりだからです。誰かが何かのインスピレーションを受けるかも知れません。物事には大きいも小さいもなく、日常を楽しむように積み重ねを選択出来るのは自分次第だと本当に思っています。

記事から読みとれるのは、この言葉が、結末のない「人の思考や思想の途中」をそのまま表現するツールとなり得る、というコニシ木の子さんの熱い思いでした。

noteの街を愛していらっしゃる方なら、さまざまなnoterさんの、「とりたてて結末のないささやかな日常」が、どれほどこの世界を潤わせているか──について、異論はないと思っています。
それなのに、それを発信する側に立ったときには、ためらいが生まれる。
ためらう必要などないのに、なぜか身構えてしまう。
コニシ木の子さんは、誰もが、「ただ日常を氣楽に発信できるようになること」を祈るように求めていて──その思いが、この「なんのはなしですか」という言葉を生みだしたのだと感じました。

その言葉自体の生まれる経緯が、安産だったのか、難産だったのかは、わたしには推しはかるすべもありませんが、冒頭にある「noteに三年いると、居なくなる人多いです。」の一行に込められた思いは、まだ半年しかこの世界を知らないわたしにも、刺さるように届きました。

わたしがnoteの世界にいる半年の間にも、親しくしていたnoterさんの何人かを、久しくおみかけすることがなくなりました。

もちろん、本来、そのことにはなんの問題もないのです。
noteの世界だけがすべてではない。
誰もが自由に、自分の生きる世界を選び、そこで楽しめばいい。
そういう当たり前の心づもりはしております。

でも、もしも記事でふれられているとおり、自分と誰かを「比較したり」、他の人の書くものに「嫉妬したり」することに疲弊して、noteの街から去っていく方がいるのなら。

いかないで。
そんな言葉が、喉元までこみあげます。

比較なんてつまらないこと。
そんなつまらないことに、どうぞ、心とらわれないで。
あなたが人を比較しないように、
人もあなたを比較なんてしていない。
あなたが「すごい」ことよりも、
ただあなたがそこにいてくれることのほうが、
千倍も、万倍も……一億倍も大切。

一緒に笑っていようよ。
笑って一緒に書いていこうよ。
泣くのもいいよ。
泣きたい思いを共有していこうよ。
どんな思いも、どんな言葉も、
認めあって、おもしろがりあって、
感動しあって、泣いたり笑ったり──
これからもしていこうよ。

わたしにとって、「なんのはなしですか」というコニシ木の子さんのご提案は、そんな思いを代弁し、実際にこのnoteの街に、ひとつの理想を描いてみせてくれる素敵な魔法でありました。

その後、「なんのはなしですか」がどれほど大きなムーブメントとなったかということ、そして、コニシ木の子さんがご自分の思いを実現するために、どれほどのエネルギーをそこに注ぎこんだのか……ということは、コニシ木の子さんのご投稿「三年間。no+eの街の路地裏で『なんのはなしですか』と叫んでいた。」、そして、その記事の返歌のように続々と投稿されたnoterのみなさんの「感想文」をみれば、一目瞭然です。

最後にその記事をご紹介して、コニシ木の子さんへの応援歌、そしてお礼とさせていただきます。
コニシ木の子さん。
そして、たくさんの「なんのはなしですか」を読ませてくださったnoterのみなさん。
本当に、ありがとうございました!

にゃんのはなしですか。愛好家のみなさん。
どうぞ、末永く、ぱにゃにゃんだ!




こちらの記事に、数週に渡り、3つのコングラボードが届きました。ご協力くださったみなさま、スキをくださったみなさま、本当にありがとうございました。

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