死んでも歌ってますね。
昨日で、このnoteへの投稿が
30日連続を達成しました。
すげーーーーーー!!!!
わーーーーーーーお!!!!
ということは、
きょうで31日連続投稿です。
まず、読んでくださっている
あなたに心から、心からです。
本当に感謝しています。ありがとう。
読んでいるよ、という言葉に
とても励まされています。
noteの「スキ」機能も、
嬉しいもんですよね。あれ。スキ、って。
ありがとうございます。
まず、アウトプットしたいことがあって、
溢れてきちゃってしょうがないから
noteへ再び投稿し始めたんです。
放置状態だったのに。
そもそもは、各種SNSすべて
人からのアドバイスでやり始めた。
音楽やってるならやったほうがいい
やらなきゃだめだよ、って
人から勧められて勧められて
「じゃあ……やってみるかぁ」と始めた。
そして、さほど面白味を見いだせなかった。
たまに、すごく感じたことを
アウトプットしたい気持ちが向けば書いたりもした。その程度。
毎日投稿とか苦行だもんね、
やらなきゃいけないことだとすると。
そういう、コツコツ系って本っ当に無理。
って思っていたけど
いま、こうして一ヶ月を振り返ったら
コツコツやれてた。
なぜなら面白かったから。
全然コツコツやった感もないんですけどね。
夢中だった。
そう。これ。夢中だった。
面白かったからですよね。
これじゃないと
わたしは、やれないんですよね。
綺麗な文章を作りたくて整えたりしだすと
もう、出せなくなっちゃう。
かっこつけだすと
何にも表現できなくなっちゃう。
自分の想定した、適切で相応しい
何者かになろうとする。
だから、武骨に。
自分の脳内会話の延長で。
何この人、って思われたらどうしよう。
いや、何この人。ってこんな人です。わたし。
生まれが下町だから、多少言葉が
べらんめえでもご愛嬌、ということで。
と、都合よくそういうことにしている。
というか、人からどう思われるか。だ。
鬼門は。
それを気にしだすと
ああでもないこうでもない
そうではないそれででもない
なんだっけ
なんだったっけ
どうすればいいんだ
つまり
正解を探しだしてしまう。
そして、初期衝動を見失う。
そうやって初期衝動が
悶々と自分の中で漂い続けて腐る。
発酵したら、もうけもんだけど
腐り、腐敗し、自分を鈍らせる。
嗅覚、心が鈍麻する。
そして、できあがったものは
なんだか良くわからないけれど
見栄えは良さげ
だが、熱が入っていない。
思い入れも大してない。
AI勝利を指くわえて見てる
「知性的でウィットに飛んだ文章スタイルで」
「専門用語も噛み砕いてわかりやすく」
そんなオーダーをchat GPTにして
書いてもらうブログ。
わたしの肉筆よりか、読みやすく
誤字脱字もなく、更には有用な知識ワードを
入れ込んで来る可能性大だ。
だから有益で合理的な文章ならば
AIのほうが上を行くという側面はある。
そう考えると
誤字脱字も多いし、言い回しも独特な
自分の文章に愛着が湧く。
別に有益になるものとか
書こうと狙っているわけでもない。
そして反応が鈍かったとしても良い。
自分が鈍るよりも良い。
あーーー、きょうは
きょうはこそは本当に
出口がないぞ。
すみません。クソデカひとりごとです。
(さっそく口が悪い)
テーマとか話題とかなくて
本当にただ思いついたことを
書くという、半ジャーナリング状態です。
あれっ、今日って6月6日なんですね。
ろくろく。
うーん。さっき初期衝動について
チラッと書いたんですけど…
いま、自分の感覚が中学生、高校生の頃に
戻ってきている感があるんですよね。
そして中2の頃とかノートに、
「初期衝動を忘れるな」
「貫け」
とか書いていた。いつも。
そんな事を思い出した。
しまいにゃ、筆と墨で
「貫け」と書いて弟に渡して
弟がそれを部屋に貼ってくれていたりして。
硬派というか、、
そういう…やっぱり周囲からすると
異質なわけですよ。
しかも、考え方に柔軟性皆無だったから
貫け、の意味も少し苦しかった。
今も、
初期衝動だとか貫けだとか
その言葉がよく浮かぶ。
これは中学生のころ…
恐れを知らなかったあの頃の自分に
帰ってきた感じがあるんですよね。
だけど、あの頃よりも
恐れを知った。弱さを知った。
己を知った。
そしてまたあの頃の自分を
やり直す、生き直す、みたいな。
なんとなくそんな感覚がしています。
そうだ、昨日も登場した整体の先生の
月一回送られてくる冊子にも
そのようなことが書いてあった。
やりたいことをやらなかった身体は
いつまでも「それ」が残っている。と。
それとは、つまり
「やりたいことをやらなかった」
というエネルギーのことだと思います。
そして、それはどうしたらいいかというと
やり直すしかないのだそうです。
他の代替手段はないのだとか。
やるしかない。
やりたいことをやらないと
やりたいことをやらなかった自分になっている。
その自分で生きるのかどうか
それもまた自由が許されている。
なんか…
わたしだけかもしれないんですけど
こう思ってしまうんですよね。
ある、ひとつの物語の
第一章、があって。
その一章の物語を
人を変え品を変え、ずーーーーーーっと
同じこと繰り返しているだけなんじゃないかって。
「実在」している人間や物や出来事がある。
その対象に対して
自分から放つホログラムを照射というか
映し出している。互いに。
伝わりますか?超わかりづらいなこれ。
みんな、映画館のあれ。
上映する機械。古い言葉しか見つからない。
映写機。映写機なんです。みんな。
みんな映写機で、
自分から、自分の心のフィルムっていうか
データっていうか記憶。
集めてきた価値観、現世の記憶。
あとは先祖代々脈々と
遺伝子に組み込まれた記憶。
あれがそれぞれ、みんなの中に
フィルムとして内蔵されていて
そのフィルムを世界に向かって映し出している。それを見て、それを実在だと思っている。
いや、実在、じゃないですよね。
実在する世界に、それを映しているだけで。
実在する人間。
実在する家。
実在するボールペン。
それに、自分の記憶を映して見ている。
たとえば
あなたが「銀だこ」のたこ焼きを目にする。
食べる。
わたしが同じようにそうする。
同じことやってるけど
全く違うんですよその内訳は。
わたしは、銀だこ、っていうと
あぁ〜カリッとしてトローっとして
おいしい、アレね。うんうん。
いいね。
銀だこっていうと…
小学生の頃、錦糸町の駅ビル
テルミナの地下のマツキヨの近くに突如できた
お店…
めっちゃ並んでるの。いつも。
行列の人気店だった。
あそこで並んで買って帰って。
お母さんのお買い物って
錦糸町なんだよね、西武かテルミナ。
懐かしい。
そもそも母は
お買い物の時は割りとご機嫌で。
だから、お買い物イコール
楽しいイベントとして感じてたんだよね。
錦糸町に行く、イコール楽しいだったんだよね。
銀だこ、イコール楽しい。
…なんて、記憶を銀だこに映している。
その、記憶を食べているとすら言って良い。
そんなことわざわざ
食べるたびになんて考えないですよ。
考えないんてすけど、
でも、よーーーくよく
観察というか、触れていくと
そういう記憶が付随していることに気がつける。
だから銀だこにネガティブイメージなし。
美味しい。たのしい。うれしい。銀だこ。
(回し者ではないです。)
記憶を食べている、というのは
ゆるく断食瞑想したときに気づいたことでした。
話を戻すと
銀だこという食べものは実在である。と。
だが、そこに自分の記憶を映している。
それを実在だと認識している。
記憶は実在ではない。
たとえば
なんだか第一印象からして
なぜか、なぜか、嫌い。
そんな女性がいたとします。
場の空気とか読まない。読めない。
自分が話の中心でない時は
超つまらなそうにしている。
そんな人がいたとして。
そういう人が好き!っていう人もいるのに。
わたしは、
わたしは、そういう人といると
いたたまれなくなり
その相手の機嫌を取ろうとしてしまって
アタフタアタフタしだしてしまう………
もしくは、
ハイ嫌い、無理、遮断。仲良くなれません。
ドーーーーーン(閉店)
なんてシャッターを閉じてしまうんですよね。
それって、その目の前にいる相手
そのものを見ていない。感じていない。
だって、感じたくないんですから。
その相手、まだ何にもしてないのに。
いるだけなのに。不快。
自分の中にある、触れたくないものに
触れてくる相手だというだけで、
その人のこと「なんか嫌い」という
ラベリングの完成です。
その触れたくないものって何、なんなの?
その触れたくないことをしてきた相手って
誰だったの?
って。
だから目の前にいる人は何も問題がないんです。
何も起きていない。
ただ、ただ、自分に気がついていくだけ。
じゃあ、気がつくことができたら
それで終わりなのかって
いやいや。
気づきつづけることなんですよね。
そこで何度つまずいたか。
何度、何度、つまずいたか!!!
よし、気づけたぞ!
もう気づけたからオッケー。
なんて傲慢になってまたすっ転んで。
なんで!もう気づいたのに!って。
気づいたら、アガリ。
ゴール。じゃない。
人生は続く。、
生きている限り
というか気づき続けること自体が
意識と一致するということなんだ。
生きる、って。
肉体を離れても意識は不滅。
意識と一致、常に気づき続けることで
意識の源に還ることができる、
肉体を離れたというのに
そのことにも気がつくことができなかったら。
酒を飲むことで魂の喜びを
感じているのだとしたら
というか酒飲まなきゃ喜びがないのだとしたら
肉体から離れたらどうしたらいいの。
酒飲め無いじゃん。
エネルギー的に酒を飲むのさ、とか
そんなの〜〜論点のすり替えでしょ、って。
肉体による、肉体ゆえの執着。
飲む、打つ、買う。
エンタメ、3S(Sex,Sports,Screen)
肉体の満たし。
それって肉体が終わったら
どうすんの、って。
なんて、
勝手な持論です。
で、わたしが言えることは何か。
こんなご立派言ってるわたしに
できることは何なのか。
まず、言いたいのは
歌は肉体がなくても歌える、ということ。
逆に肉体がなければ歌えない歌は
歌じゃない、と、わたしは思っている。
でも、肉体があるからこそ
歌える歌があります。
それを存分に味わおうよ、って。
こんなに素晴らしいことはない。
恩恵に預かろう!って。
そんなことを感じていただけるような
レッスンをしていたいんです。
そんなレッスンって
対面じゃなきゃ無理だと思ってたけど…
オンラインでやりたいな、と。
だって、時間も距離もない。
意識には。
すべてと繋がっている。
肉体的なボイトレならば
物質的条件が揃わねば
不可能だろう。
意識を愛でるというか
そういったレッスンならば
オンラインでだって
できないわけがないんじゃないか、って。
時間も距離も制限なく誰でもできるように。
そんなことをやりたい。
特にネックとなるのが声量。
環境問題。
家じゃ歌えないよ、って方々多い。
そこがオンラインレッスンでの壁だった。
どうしようもないもんね。
でも…
大変なこと忘れていた。
声量は、関係、ない!
うたごころで歌う歌は
声量、関係ない!
むしろ、不自由に制限がかかっていることを
逆手に取ってしまえる。
なんだっけ、そうレバレッジ。
うんうんうん。
そうだそうだ。
既存の、テクニックを磨く
ボーカルトレーニングではない。
わたしのやりたいことは。
歌ってもらうこと、だ。
本当に歌ってほしいんだ。
生まれてきて、本当に歌うことを
してほしいんだ。
そしてその邪魔をしているものに
気づく、だ。
歌う内観、かな。
加えて
ボーカルコーチング、ボーカルセッション
ボーカルカウンセリング、ボーカルヒーリング
などなど、なんやかんやだ。
そんなことをやりたい。
きっと必要としている人がいる。
それよりなにより、わたしは
それを伝えたくて、渡したくて仕方がないんだ。