「比較」をせずに「評価」をすることは可能か。

上記の命題は、私が大学生の頃に哲学の教授に投げ掛けた疑問である。

当時の私は高校受験や大学受験、差し迫る就職活動に精神を擦り減らしていた。同級生は皆ライバルで、悩みを打ち明けられる友人は一人もいなかった。

私はいつの間にか競争社会に迷い込んでいた。ただ勉強がしたかっただけなのに、どうして人より優れてなくてはならないのだろうか。そう思った私は、先人の知恵を借りようとこの命題を掲げたのである。誰にも比較されることなく、“真に絶対的な”評価をされるために。

結論から言おう。「比較」をせずに「評価」をすることは、不可能である。人間は何かを評価する時、必ず他の何かと比較をする。比較をしなければ、その姿や性質を理解することができないのである。例えば、ここに赤くて大きいボールと青くて小さいボールがあるとする。赤くて大きいボールは「赤い」、「大きい」という性質を、青くて小さいボールは「青い」、「小さい」という性質を持つ。ボールを「赤い」と形容する場合、私達は「赤くない」ものも同時に連想させることができる。そして、それはどちらも同じように“存在しなければならない”のである。どちらかが欠ければ、私達は比較対象が消えたために、「赤い」という“言葉”を失うことになる。つまり認識できなくなるのである。赤かったはずのボールは“色”を失ってしまうのである。

「大きい」と「小さい」、あるいは「高い」と「低い」という評価は、比較における最も単純な言葉である。こういった言葉も二つ以上のものが同時に提示されなければ通用しない言葉である。比較対象が失われれば、必然的に“もの”は単一化され、これらの言葉は全く意味を成さなくなる。

学問における評価も例外ではない。学校における“成績”は、相対評価と絶対評価で構成される。

相対評価は、簡単に言えばランキングである。試験の点数によって「順位」が決まり、人の「優劣」を判り易く評価する手法、これが相対評価である。

絶対評価は、ある「基準」に照らし合わせた際に、その基準をクリアしていれば良い、という判断をするための手法である。例えば、試験において70点以上獲得した者は全員合格という考え方である。

相対評価は人同士を比較する。絶対評価は基準と人を比較する。どちらも比較をすることに変わりはない。

ところで、学校においては「所見」というものがある。所見は、児童や生徒の成績、授業中の態度、学校生活の様子をまとめた記録である。成績表の下の方に「算数の学習を意欲的に取り組みました」、「運動会の練習を一生懸命に頑張っていました。応援団として運動会を盛り上げてくれました」、「委員会の委員長として他学年との交流に励んでいました」などと書いてあるものがそれである。一見、比較はしていないようにも聞こえる評価である。しかし、本当にそうであろうか。

所見は教員にとってはかなりの重労働である。クラス全員分の所見を書き、なおかつ極力内容がかぶらないようにしなければならない。では、かぶらないようにするためにはどうするか。その児童・生徒の優れているところあるいは印象深い特徴を探すのである。そこに比較がないとは言い切れない。その子どもにはあって、他の子どもにはないものを見付けることなのだから。“真に絶対的な”評価とは程遠い。


さて、長くなってしまったが結論は変わらない。「比較」をせずに「評価」をすることは不可能である。私たちの頭の中から比較という概念が消えれば、それと同時に“言葉”も失うことになり、正しく閉口することになる。


では、私の理想とする“真に絶対的な”評価とは何か。

きっとそれは、“評価しないこと”なのである。矛盾しているだろうか。

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