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兄の気持ちはよくわかる

イエスのたとえ話シリーズ No.7 放蕩息子の兄

2024年7月7日

ルカによる福音書15:25-32

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

タイトル画像:KatiによるPixabayからの画像


はじめに


「放蕩息子の譬え話」は、キリスト教の教えの中で最も広く知られ、深い洞察を与える物語の一つです。この譬え話は、神の無条件の愛と赦しを象徴的に描く一方で、人間の複雑な心理と社会関係をも鮮やかに浮き彫りにしています。

今回は、この有名な物語を新たな視点から探究します。特に注目するのは、物語の後半に登場する兄の反応です。多くの人々にとって馴染みの薄いこの部分こそ、実は現代社会に生きる私たちの姿を如実に反映しているのです。

裕福な父と二人の息子を軸に展開するこの物語は、単なる家族ドラマを超えて、赦しの本質、公平さの概念、そして人間の本性に関する深遠な問いを投げかけます。放蕩の末に帰郷した弟を無条件に受け入れる父の姿は、確かに神の愛を象徴しています。しかし、その一方で、長年忠実に仕えてきた兄の怒りと失望は、私たちの多くが共感し得る、極めて人間的な反応なのです。

今回は、この「忘れられがちな兄」の視点に焦点を当て、その心理を丹念に分析していきます。兄の怒りの根源を探ることで、私たちは自身の内なる葛藤や、社会における正義と慈悲のバランスについて、新たな洞察を得ることができるでしょう。

この古い物語が、現代を生きる私たちにどのようなメッセージを投げかけているのか。そして、それが私たちの日常生活や人間関係にどのような示唆を与えるのか。皆様と共に考察を深めていきたいと思います。

物 語


放蕩息子の譬えは、新約聖書のルカによる福音書第15章11節から32節に記されている、イエス・キリストが語られた著名なたとえ話です。

物語は、裕福な家庭に二人の息子がいたところから始まります。ある日、弟の息子が父親に対して、通常では考えられないような要求をします。すなわち、父親がまだ存命中であるにもかかわらず、自分の相続分を前もって与えてほしいと申し出たのです。弟は、自分の意のままに生活したいがために、このような無礼とも取れる要求をしたのでした。

一般的な感覚からすれば、このような要求は非常識であり、父親がこれを受け入れることは考えられません。多くの人は、このような要求を聞き入れる父親を甘すぎると批判するでしょう。しかし、この物語の中の父親は、驚くべきことに弟の願いを聞き入れ、財産を分け与えてしまいます。

財産を手に入れた弟は、すぐさま遠い国へと旅立ち、放縦な生活を始めます。彼の行動は、人としての道徳や倫理観から大きく外れたものでした。莫大な財産を浪費し、遊女と戯れるなど、社会的に最も非難されるべき行為に身を委ねたのです。

当然の結果として、弟は全財産を失い、奴隷同然の惨めな生活を強いられることになります。この状況に対して、多くの人々は同情の念を抱くことは難しいでしょう。なぜなら、これは彼自身の行動がもたらした当然の帰結だからです。

しかし、物語はここで終わりません。弟が家に戻ってくることで、家族の中に大きな波紋が広がります。特に兄は、弟の行動を許すことができず、深い怒りを感じています。

この兄の反応は、多くの人々が共感できるものかもしれません。なぜ兄がこれほどまでに怒りを感じているのか、その理由を詳しく探ることで、この物語がより深い意味を持つことがわかります。兄の心情を理解することは、この譬え話の本質的なメッセージを理解する上で非常に重要な鍵となるのです。

ユダヤ教から見た弟が犯した罪


放蕩した罪

ユダヤ教における放蕩に対する考え方として、まず、 ユダヤ教は一般的に、放蕩を否定的に捉えています。これは、ユダヤ教の中心的な価値観である節制、自制、そして神の法への従順と矛盾するためです。

モーセ五書には、過度の飲酒や性的放縦に対する警告が含まれています。例えば、申命記21章18-21節には「強情で反抗的な息子」に関する厳しい記述があります。

申命記21:18-21
21:18 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
21:19 その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
21:20 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
21:21 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。

また、箴言などの知恵文学では、放蕩的な生活様式の危険性について繰り返し警告しています。例えば、箴言23章20-21節では、大酒飲みや大食漢と交わることの危険性を指摘しています。

箴言
23:20 大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな。
23:21 大酒飲みとむさぼり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぼる者は、ぼろをまとうようになるからだ。

ユダヤ教において、個人の行動が共同体全体に影響を与えるという考えに基づく倫理観があります。したがって、放蕩は単に個人の問題ではなく、社会全体に悪影響を及ぼす可能性があるとみなされます。

そうした一方で、ユダヤ教は悔い改め(テシュヴァ)の概念を非常に重視しています。放蕩の後でも、真摯な悔い改めと行動の変化があれば、神の赦しを受けることができるとされています。

「放蕩息子のたとえ」はキリスト教の文脈で有名ですが、ユダヤ教でも同様の教えがあります。ミドラシュ(ユダヤ教の聖書解釈)には、悔い改めた罪人は完全な義人よりも高く評価されるという教えがあります。

さらに ユダヤ教は生活を楽しむことを否定しません。むしろ、適度な楽しみは推奨されています。問題は、過度の放縦や自制心の欠如にあるとされます。

豚を飼育した罪

16節に『それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。』とありますが、おそらく、遊び仲間だったのでしょう。『ある人』に世話になろうとします。

しかし、世間は厳しいものです。お金のあるうちは、その知人とも楽しく遊興にふけったと思いますが、お金が無くなると手のひらを返したように変貌するものです。その知人は、やむなく仕事をあてがいますが、その仕事とは、豚の世話という仕事でした。

ユダヤ教において、豚は特別な意味を持つ動物です。ユダヤ教の食事規定(カシュルート)において、豚は最も禁忌とされる食物の一つです。

モーセ五書のレビ記11章7節には『それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。』

と記されています。ユダヤ教の食事法では、陸上動物を食べるためには蹄が分かれていることと反芻することの両方の条件を満たす必要がありますが、豚は蹄が分かれているものの反芻しないため、不浄な動物とされています。

豚肉を食べてはならないという規定は、ユダヤ人のアイデンティティを形成する重要な要素の一つとなっています。歴史的に、豚肉を食べないことは、ユダヤ人が異邦人と区別される特徴の一つでした。特に、ヘレニズム時代やローマ帝国支配下において、豚肉を食べることを強制されるなどの迫害を受けた経験から、豚肉を拒否することはユダヤ教の信仰を守ることの象徴ともなりました。

また、豚に対するタブーは単に食べることだけにとどまりません。多くの敬虔なユダヤ教徒は、豚に由来する製品(例:豚皮を使用した靴や財布)の使用も避けます。また、「豚」という言葉自体もタブー視され、婉曲的な表現が用いられることもあります。

豚に対するこのような態度は、ユダヤ教の「聖なるものと俗なるものを区別する」という基本的な考え方を反映しています。これは単なる衛生上の理由ではなく、神の命令に従うことで聖なる民となるという宗教的な意味合いを持っています。

このように、ユダヤ教において豚は単なる動物以上の意味を持ち、宗教的アイデンティティや信仰の実践に深く関わる存在ですから、豚を飼育することを余儀なくされた、弟はユダヤ人として、完全に堕落していたということを示すものでもありました。

娼婦との関係をもった罪

弟は、財産がある時に遊女と交わっていたということが示唆されています。

ルカによる福音書
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

ユダヤ教と遊女(売春婦)の関係は複雑で、歴史的、宗教的、そして社会的な側面があります。旧約聖書には、売春に関する言及が複数あります。一般的に、売春は禁止されていますが、完全に排除されているかといえば、そうとも言い切れず、例えば、創世記38:15では、ユダとタマルの物語において、タマルが売春婦に扮する描写があります。

しかしながら、ユダヤ教の法律(ハラハー)では、売春は明確に禁止されています。特に、ユダヤ人女性が売春を行うことは重大な罪とされています。

レビ記19:29には『あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。』という記述がありますが、その『みだらなこと』זָנָה (ザーナー)は「娼婦」、「姦通」を意味することです。

しかし、歴史的にはユダヤ人社会においても売春は存在していました。特に、ディアスポラ(離散)の時代には、貧困や社会的圧力によってやむなく売春に従事するユダヤ人女性がいました。

ユダヤ人社会の中で、娼婦は社会の最下層の人々とみなされ、軽蔑の対象とされました。しかし、同時に彼女たちを社会復帰させようとする慈善活動も行われていました。ラビ文学では、売春婦を単に非難するだけでなく、彼女たちの状況に対する同情や理解を示す記述も見られます。例えば、タルムードには、売春婦の悔い改めを称える物語があります。

ユダヤ教は原則的には、売春を禁止し、否定的に見ていますが、同時に売春に従事する人々への同情や理解、そして彼らを社会に再統合させることの重要性も認識しています。この姿勢は、ユダヤ教の基本的な価値観である人間の尊厳の尊重と、悔い改めに導こうという思想があります。

周囲の反応


以上、弟の行為について詳しく述べてまいりましたが、これらの行動は、ユダヤ教の信徒たちだけでなく、現代を生きる私たちの目から見ても、非常に問題のあるものだと言えるでしょう。

まず、父親から分与された財産を浪費したという点は、深刻な問題です。しかも、その使途が自身の享楽や遊女との戯れといった、社会的に非難される行為であったことは、さらに重大な過ちと言えます。このような行動は、家族の信頼を裏切り、社会的な責任を放棄したものとして、多くの人々の眉をひそめさせるものでしょう。

また、自らの放蕩の結果として財産を失い、最終的には不浄とされる仕事(豚の世話)に従事せざるを得なくなったという点も、重要です。この展開は、日本人を含む多くの文化圏において、「自業自得」あるいは「因果応報」と捉えられるでしょう。多くの人々が「当然の報いだ」「いい気味だ」といった感情を抱くことは、十分に想像できます。

さらに、このような行動は家族関係、特に兄弟関係に深刻な亀裂をもたらす可能性が高いことも指摘しておく必要があります。実際、多くの文化において、このような状況下では兄弟の縁を切るという極端な措置さえ取られることがあります。

弟自身も、自らの行動がもたらす可能性のある結果について、十分に理解していたと考えられます。それにもかかわらず、彼がこのような行動を取ったという事実は、彼の性格や価値観について多くの疑問を投げかけるものです。

このように、弟の行動を詳細に分析すると、それが単なる若気の至りではなく、深刻な倫理的・道徳的問題をはらんでいることが明らかになります。

ルカによる福音書
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

弟は、人間社会の根底に流れる普遍的な価値観というものを知っていたことが伺えます。こうした人間の価値観は、往々にして厳しい現実を映し出す鏡となります。放蕩の末に家庭に戻る者に対し、父親さえもその愛情の糸を断ち切る可能性は否めません。まして、誠実に労苦を重ねてきた兄が、その心の扉を再び開くことは、至難の業と言わざるを得ないでしょう。

この感覚は、洋の東西を問わず、人間の心の奥底に潜む共通の感情です。我が国、日本においても、親子や兄弟の縁を絶つという行為は、重大かつ最終的な決断として認識されています。それは単なる慣習ではなく、社会の秩序を維持する上で不可欠な道徳的判断の表れでもあるからです。

このような厳格な態度の根底には、自己責任の原則という、社会の礎石たる概念が横たわっています。自らの行動がもたらした結果は、他ならぬ自身で引き受けるべきであるという、古来より人類が育んできた倫理観がそこにあります。己の選択が招いた苦難は、自らの身に降りかかって然るべきものなのです。

同時に、この原則の裏返しとして、放縦な生活を送りながらも最終的に利を得る者に対しては、赦しがたい感情が湧き上がる。これもまた、人間の心の機微を如実に表す現象と言えましょう。公平性への渇望と、不当な利益に対する本能的な反発が、この感情の源泉となっているのです。

しもべたちはどう反応しただろうか

ルカによる福音書
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

この瞬間、しもべたちは、言いようのない複雑な表情が浮かんだことでしょう。彼らの眼差しは互いに交錯し、無言の内に深い疑念と驚愕を交わしたに違いありません。その胸中には、主人の憐れみの心に対する戸惑いが渦巻いていたことでしょう。

彼らの心の奥底では、おそらくこのような複雑な感情が渦巻いていたのではないでしょうか。「このような寛大な赦しが本当にあり得るものだろうか。長年の忠実な奉仕よりも、放蕩の末に帰ってきた者を優遇するとは。しかも、このように豪華絢爛な歓迎の宴を設けるとは。到底信じがたい。」と。

その心中には、驚きと共に、僅かながら嫉妬の炎も燃え上がっていたかもしれません。長年忠実に仕えてきた自分たちに対しては、このような破格の待遇はなかったという思いが、胸の内でくすぶっていたことでしょう。

やがて、宴もお開きとなり、召使いたちが自分たちの部屋に戻った際には、互いに顔を見合わせながら、こそこそと声を潜めて話し合ったに違いありません。「主人の態度は全く理解しがたいものだ。あまりにも甘すぎるのではないか。このような赦しは、逆に息子の更生の妨げになるのではないか。」と、あれこれと批判的な意見を交わしたことでしょう。

中には、「私たちも同じように放蕩三昧の生活を送り、帰ってくれば歓迎されるのだろうか」と、半ば冗談交じりに呟く者もいたかもしれません。しかし、その言葉の裏には、主人の愛の深さと寛容さへの戸惑いと、自分たちの立場への不安が垣間見えたのではないでしょうか。

しかし、表向きしもべたちは、長年の忠誠と従順さゆえに、自らの本心を押し殺し、主人の意志に従ったことでしょう。おそらくは、彼らの動きには、おそらく一瞬の躊躇いがあったでしょうが、その躊躇いは瞬く間に消え去り、彼らは粛々と命じられた仕事を行うのでした。

兄の反応とその理由

こうした場にいた兄の態度はどうであったでしょうか。

ルカによる福音書
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

畑から帰宅した兄は、弟の帰還を祝う宴の音を聞きます。なぜ、祝い事を行っているのかということです。事情を尋ねたしもべから真相を知るいなや、彼は、激怒して家に入ることを拒みます。父は、兄の思いを知り、なだめますが、それにも耳を貸さず、自らの長年の忠実な仕事ぶりと質素な生活を引き合いに出しながら、放蕩の末に身代を食いつぶして戻った弟のために、なぜ、こんな贅沢な歓迎の宴を設けたのかと、父の処遇の不公平さを強く非難しました。兄の憤怒の根源は、実に複雑かつ深いものでした。

第一に、長年にわたる忠実なる仕事ぶりと律法を守ってきたのにもかかわらず、特段の褒美も祝宴も与えられぬまま過ごしてきた兄の胸中には、深い不公平感が渦巻いていました。

その一方で、放蕩の限りを尽くした弟の帰還が、このような盛大な歓迎で迎えられる様は、兄の心に激しい動揺をもたらしたのです。

次いで、兄の怒りは弟の不埒な生き方に向けられました。「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして」戻ってきた弟の無責任極まりない行いと、家族の財産を蕩尽させた事実は、兄の理性を激しく揺さぶったのです。

さらに、父の態度もまた、兄の憤懣を掻き立てる一因となりました。弟の行為を容認し、むしろ祝福しようとする父の姿勢は、兄の価値観と真っ向から対立するものでした。兄の心中では、弟の所業は厳しく咎められるべきものであり、決して歓迎されるべきではないと強く信じていたのです。加えて、この祝宴が行われたことを知らされぬまま置かれたという事実も、兄の心を一層深く傷つけたことでしょう。

兄はまた、己の長年にわたる献身的な労苦が正当に評価されていないという深い失望感に苛まれていました。「友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません」という言葉には、自らの犠牲が軽んじられているという痛切な思いが込められていました。

この背景には、勤勉と従順を最高の美徳と考える兄の価値観と、赦しと和解を重んじる父の思想との間に横たわる深い溝がありました。この価値観の相違が、兄の怒りを一層激しいものとしたのです。

こうして、弟に与えられた特別な処遇は、兄の心に嫉妬の炎を燃え立たせ、その怒りをさらに煽り立てる結果となったのは言うまでもありません。

この場面は、人間の常識と神の慈愛との間に横たわる深い淵を如実に表しています。しもべたち、また兄の反応は、赦しの真髄を理解することの難しさを物語っているばかりか、同時に、無条件の愛が我々の理解を超えた次元に存在することを示していることを教えています。

このように、放蕩息子の譬えが提示する赦しの概念は、人間の複雑な心理や価値観と鋭く対立する課題を提起しています。それゆえに、この物語は二千年以上もの間、人々の心に深い思索の種を撒き続けているのです。

最後に


神学書において、兄の姿勢はしばしばパリサイ的律法遵守主義を示すものとしてとして描かれてきました。しかし、このような解釈は人間性の複雑さを過度に単純化する危険を孕んでいます。実に、この兄の態度は、キリストの御名を唱える者の間にさえ、あまねく見られる普遍的な人間の性質を如実に表しているのです。

私たちが、この譬え話の中の兄の心情に容易に共感してしまうのは、実は深い意味を持っています。それは、私たち自身が抱える原罪の本質を十分に理解できていないことに起因しているのです。

確かに、私たちは自分の罪深さをある程度は認識しているかもしれません。しかし、全知全能なる神の視点から見た時の、自分の罪の真の姿を完全に把握することは極めて困難です。この認識の不足が、私たちを容易に他者を裁く立場に立たせ、時には他人の不幸を密かに喜ぶという、本来あってはならない行動へと導いてしまうのです。

しかし、ここで重要なのは、神の御前においては、兄も弟も、そして私たち一人一人も、等しく罪人であるという事実です。私たちは皆、神の裁きを受けるべき存在なのです。にもかかわらず、私たちは往々にして、他者が自分よりも恵まれていると感じる時、その祝福を素直に喜ぶことができません。これは人間の本性の弱さを如実に表しています。

このような人間の本質的な弱さや罪深さに対して、イエス・キリストは十字架上で血を流し、苦痛を味わわれました。その尊い犠牲は、単に個人の罪の赦しだけでなく、より広範な意味を持っています。それは、人間と神との間に生じた分断に和解をもたらし、同時に人と人との間の分断を癒し、真の交流と互いの尊厳の回復をもたらすためでもあったのです。

イエス・キリストの十字架上の犠牲が持つ意味は、まさにこの点にあります。その尊い血によって、私たちは神との和解だけでなく、他者との関係においても、真の赦しと和解の可能性を見出すことができるのです。

使徒パウロは、ローマ人への手紙12章14-15節において、「迫害する者を祝福し」「喜ぶ者と共に喜び」「泣く者と共に泣く」ことを諭してます。
これは単なる理想論ではなく、聖霊と共に歩む者の真の姿を示しているのです。しかし、我々の本性は依然として兄のそれと変わらぬものであり、今なお、その影響下にあることを認めざるを得ません。

まさにそのような我々の心の内に、キリストは受肉されたのです。父なる神が兄に語りかけた言葉、「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」は、我々にも向けられた永遠の真理なのです。

『その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。』と29節で兄は父に食ってかかりました。しかしながら、兄の状況は実際どのようなものだったでしょうか。確かに兄は、父が仔山羊を屠って祝宴を開くことのなかった人生を歩んできたのかもしれません。

ですが、本当にそうだったのでしょうか。いいえ、そうではありません。実は、この兄のために、罪なき神の御子、神の仔羊がすでに屠られ、天において盛大な祝宴が催されていたのです。これは何と素晴らしいことでしょうか。ハレルヤ!

不公平感に苛まれ、赦しを拒み、自らの不幸を嘆く我々の心の奥底に、キリストの十字架による贖いが深く刻まれていることを、私たちは常に心に留めておくべきです。これこそが、聖霊のご臨在の奇蹟であり、この真理を胸に刻むことこそが、我々を真の赦しと和解へと導く道であるのです。アーメン。

適 用


  1. 自己義認の危険性をおぼえよう
    兄の態度は、自分の功績や正しさに注目し、他者の過ちを厳しく裁きました。この自己義認は、私たちも陥りやすい罠です。自分の善行や忠実さを誇るのではなく、常に謙虚さを保ち、自分も神の恵みを必要とする存在であることを忘れないようにしましょう。

  2. 赦しと和解の精神を育みましょう
    兄は弟を赦すことができず、父の寛大さに怒りを覚えました。この反応は、赦しの難しいことを教えています。しかし、真の成長と和解は、他者の過ちを赦し、新たな関係を築く勇気から生まれます。日常生活において、他者を赦し、和解する機会を積極的に求めていくことを求めていきましょう。

  3. 神の無条件の愛を理解し、実践できるよう聖霊に働いていただこう
    父親の無条件の愛は、神の愛を象徴しています。兄はこの愛の深さを理解できませんでしたが、私たちはこの愛を理解し、自分の生活に適用することが求められています。それは他者を裁くのではなく、すべての人に対して寛容で愛に満ちた態度を持つことを心がけですが、それには聖霊による働きが必要です。聖霊に満たされることを求めていきましょう。