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信仰の旅 Ⅱコリント人への手紙5:6-7

2024年4月28日 礼拝

Ⅱコリント人への手紙5:6-7

5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

タイトル画像:Pixabayからの画像


はじめに


信仰の旅は、見えるものによってではなく、信じる心によって歩むものです。この道は、時には不確かで、目に見えるものが全てではないことを教えてくれます。今回はパウロ、ファニー・クロスビー、ヘレン・ケラーという三人の信仰の旅人たちの人生は、私たちにその真実を教えてくれてくれます。彼らは、視覚を失ったことで、信仰という目に見えない力を通して、どのようにして困難を乗り越え、世界に影響を与えたのでしょうか。彼らの人生は、神の計画の中で歩むことの意味を深く示しており、私たちにとっても、信仰による歩みの模範となっています。では、彼らの信仰の旅を一緒にたどり、その秘密を探っていきたいと思います。

心強くなるために


コリント人への手紙Ⅱ
5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

Ⅱコリント5章6節では、パウロはクリスチャンの確信について語ります。
彼は、『私たちはいつも心強いのです。』と語ります。本当にそうでしょうか?前回の記事を読んでいきますと、『うめく』とありますから、実際の信仰生活のほとんどは、『いつもうめいているのです。』というのが私たちの本音であります。

しかし、パウロは、そうしたことは承知の上で、『心強い』と語っています。この元の言葉は、サレオーという言葉で、困難や危険の前での陽気な自信というポジティブな性質を意味しています。こうしたポジティブになれる要因が、前回紹介した5節にある『御霊』の存在です。

私たちに内在してくださっている『御霊』つまり聖霊がおられることで、私たちは、ポジティブでいられるということです。5節をあらためて見ていきますと『保証』とありますから、私たちのメンタルの部分においても、『御霊』の深い関与があることがわかります。

コリント人への手紙Ⅱ
5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

ところが、そうした中にあると頭では理解していても、つい頭にもたげるのは『うめき』であるわけです。

そうした心情をパウロは6節後半で『ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。』と表現してますが、私たちが肉体にいる間は、主から離れていると感じることがあることをパウロ自身も否定はしていません。

しかし、それでも確信を持っていると述べています。この確信は、死後に主と共にいることへの希望に基づいています。つまり、私たちがこの世での肉体を持っている間は、神の完全な臨在から一定の距離がありますが、肉体を離れた後は、神と直接的な関係を持つことができるという希望を持っているのです。

『ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。』

6節後半をギリシャ語本文から見ていくと、エンデメオー(家にいるの意)とエクデメオー(不在であるの意)が用いられています。この2つの動詞は、新約聖書でここだけに用いられている言葉です。

後者のエクデメオーという言葉は、自分の家や国を離れているという特別な意味を表し、肉体は私たちの一時的な住まいであり、本当の家は神のもとであるということを示しています。

パウロは、この世の生活が一時的なものであり、永遠のいのちへの移行期であるという視点から、死を恐れることなく、むしろそれを受け入れることに満足していると説明しています。これは、クリスチャンが永遠のいのちに向けて造られたという神の計画に対する信頼と、聖霊が与えられたことによる確信に基づいています。ですから、どんなことがあろうと私たちはポジティブでいられますし、主にあって私たちは挫けないのです。

見えないことの意味


コリント人への手紙Ⅱ
5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

2コリント5章7節で、パウロは、『私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。』と述べています。
これは、クリスチャンが物理的な世界の見えるものにより頼むのではなく、神の約束とその御言葉に対する信仰に基づいて生きるべきであるということです。

この節で使われている『見る』(エイドス)という言葉は、物理的なものを視覚的に認識する意味です。

人間がもつ五感のなかでも、脳の神経回路の約7割程度が、視覚からの情報処理に当てられると考えられているようですが、私たちの行動を決定し、処理する能力のほとんどはこの視覚に依存しているわけです。ですから、人間の行動や思考を決定づける視覚の影響は非常に大きいといえるでしょう。

しかし、パウロは人間が持つ視覚という能力の多大な貢献というものを知らないはずはありません。目が見えなくなれば、それこそ、生活が著しく不自由になりますし、助けがなければ生きていくことが不可能です。

パウロは、こうした人間の能力を踏まえたうえで、信仰という目に見えない神の存在や神の働きを信じることの重要さを示しています。

パウロ

ところで、このエイドスという言葉で想起するのは、ダマスコの途上でのパウロ(旧名サウロ)の回心の箇所です。この記事は、使徒行伝9章1-19節、22章6-21節、26章12-18節で語られています。

Saint Paul Writing His Epistles by Valentin de Boulogne. 
From Wikimedia Commons, the free media repository

サウロは、エルサレムのパリサイ派の一員であり、イエス・キリストの復活後、成立した「道」と呼ばれていたキリスト教会を根絶やしにすることを誓っていました。彼は、ダマスコのキリスト教徒を逮捕するための権限を大祭司から与えられていました。

ダマスコへの道中で、サウロと同行者は突然、天からのまばゆい光に打たれました。サウルは声を聞き、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」(使徒9:4)と問われました。サウロが誰の声か尋ねると、「私わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(使徒9:5-6)と答えがありました。

サウロは盲目となり、同行者に手を引かれてダマスコに入りました。彼は3日間、盲目のまま飲食もせずに過ごしました。その間、イエスはダマスコの弟子アナニヤに幻を見せ、サウロのもとへ行くよう命じました。アナニヤはサウルの悪名を知って恐れましたが、イエスはサウルが異邦人、王たち、イスラエルの民に福音を伝えるための選ばれた器であると説明しました。

アナニヤはサウルのもとを訪れ、イエスが彼に目を開かせ、聖霊で満たされるために送ったと告げました。サウロの目から鱗のようなものが落ち、再び見ることができるようになりました。彼は立ち上がり、キリスト教徒としてバプテスマ(洗礼)を受け、力を取り戻しました。その後、サウロはダマスコの弟子たちと共に数日間を過ごし、自らの名前をパウロに変え、イエスを「神の子」と宣言しながら福音を伝えたという記事です。

この回心は、パウロがキリスト教の最も熱心な使徒の一人となり、後に多くの苦難を乗り越えながら福音を世界中に広めるきっかけとなりました。

こうした、パウロ自身のかつての経験を踏まえているのでしょう。パウロの鮮烈な回心の経験は、盲目にされたことで、主ご自身を心の中で見ることや視覚によらない対話によって強められたものであったに違いありません。

ファニー・クロスビー

ここでファニー・クロスビーを紹介しましょう。本名:フランシス・ジェーン・クロスビー、1820年3月24日 - 1915年2月12日)は、アメリカの伝道者、詩人、作詞家、作曲家でした。

A picture of Frances Jane "Fanny" Crosby (1820-1915), American poetess and one of the most prolific hymnists in history, composing over 8,000 hymns.
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彼女は非常に有名な賛美歌作家として知られており、8,000曲以上の賛美歌と福音歌を作詞し、その曲は1億部以上印刷されましたそうです。クロスビーの代表的な作品をご紹介しましょう。

Pass Me Not, O Gentle Saviour
主よながそばをば 聖歌562番

Blessed Assurance
つみとがをゆるされ 聖歌201番

Jesus Is Tenderly Calling You Home
イエスはなれを呼びたもう 聖歌404番

Praise Him, Praise Him
たたえよ救いぬしイエスを 聖歌501番

Rescue the Perishing
罪にしずむなが友に 聖歌548番

To God Be the Glory
ああ み神をみなほめよ 聖歌384番


などの有名な歌を作りました。

彼女は、ニューヨーク州に生まれ、幼少期に視力を失いました。彼女の父親は、彼女が6ヶ月の時に亡くなり、母親と祖母に育てられました。1835年から1843年まで、彼女はニューヨーク市の盲学校に通い、その後、教師として同校に残り、1858年に同じく盲目の元生徒で教師であったアレクサンダー・ヴァン・アルスティーンと結婚しました。彼らには1人の子供がいましたが、幼児期に亡くなりました。

盲目であったクロスビーは、こう言いました。

ああ、私はなんと幸せな魂なのだろう。 私はこの世で満足することを決意している。他の人々が享受していない多くの恵みを、私は享受している。

目が見えることによる利点は数多くあります。しかし、神は信仰という目に見えないものによって生きることの幸いをファニー・クロスビーは証ししています。
ファニー・クロスビーの言葉は、盲目だけでなく、一人の子供を亡くすという苦しみにもかかわらず、彼女の人生と信仰に対する深い満足と感謝の気持ちが現れています。彼女は視覚、愛児を失いましたが、それを不幸とは捉えず、むしろ神から与えられた多くの恵みとして受け入れていました。

彼女の言葉は、私たちに対して、持っているものに感謝し、現状に満足することの大切さを教えてくれます。彼女のポジティブな姿勢は、多くの人々にとってインスピレーションとなり、彼女の賛美歌は今日でも多くの人々に愛されています。

ヘレン・ケラー

また、三重苦の人として知られているヘレン・ケラー(Helen Adams Keller、1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国の作家、障害者権利の擁護者、政治活動家、講演家です。

Helen Keller in profile, 1904. From Wikimedia Commons, the free media repository 

アラバマ州タスカンビアに生まれたケラーは、生後19か月で病気により視力と聴力を失いました。

彼女は7歳の時にアン・サリヴァンという教師と出会い、言葉や読み書きを学びました。ケラーは盲学校と聾学校、そして普通学校で教育を受けた後、ハーバード大学のラドクリフ・カレッジに通い、盲ろう者として初めてバチェラー・オブ・アーツの学位を得ました。

ケラーは14冊の本と数百もの演説とエッセイを執筆し、動物からマハトマ・ガンディーに至るまで幅広い題材について書きました。彼女は障害を持つ人々のため、また女性参政権、労働者の権利、世界平和のために活動しました。1909年にはアメリカ社会党に入党し、アメリカ自由人権協会の創立会員となりました。

ケラーの自伝『わたしの生涯』は、彼女の教育とサリヴァンとの人生を広く知らしめ、舞台劇『奇跡の人』や同名の映画が知られています。

現在も彼女の生涯は、障害を持つ人々の可能性を示し、勇気を与え続けています。
ケラーはこう言います。

私の道は他人には暗く見えるかもしれませんが、私は心の中に魔法の光を持っています。 霊的な強力なサーチライトである信仰が道を照らし、不吉な疑念が影に潜んでいても、私は臆することなく、葉がいつも緑で、喜びが宿り、ナイチンゲールが巣を作って歌い、主の御前で生と死が一体となる、魅惑の森に向かって歩む。

ヘレン・ケラーの言葉は、彼女が直面した障害にもかかわらず、内面の強さと希望を見出す力を持っていました。
彼女は、外的な障害や暗闇を乗り越え、内なる信仰という「魔法の光」によって道を照らし、前向きに生きることの重要性を語っています。この言葉は、どんな困難な状況にあっても、信仰や内面の強さが私たちを導き、希望を持ち続けることができるというメッセージを伝えています。ヘレン・ケラーは、その生涯を通じて、多くの人々にとって希望の源となりました。

信仰によって歩むということの意味


コリント人への手紙Ⅱ
5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
διὰ πίστεως γὰρ περιπατοῦμεν οὐ διὰ εἴδους

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

パウロ、ファニー・クロスビー、ヘレン・ケラーと3人について見てきましたが、3人の共通点は視覚の喪失という点での共通点を持っています。
しかし、彼らの共通点は、そこにとどまりません。3人とも自らの障害を乗り越えて世界に大きな影響を与えたことで知られています。

これらの人物は、障害が人生の可能性を制限するものではないことを示し、信仰、創造性、そして決意によって、困難を乗り越えて成功を収めることができるという強力なメッセージを世界に送りました。彼らは、障害を持つ人々の可能性と、聖霊がもたらす人間の精神の力を象徴しているということです。

なぜそのような歩みを行えたのでしょうか。彼らは天才であって、そもそもの能力が高いゆえに、卓越した業績を残せたと思う人も多いでしょう。
しかし、実は多くの人は、その優れた能力を使わずに世を去る人が多いのです。では一体用いられる秘訣はどこにあるのでしょうか。

その秘訣は7節の『信仰によって歩んでいます。』という言葉にあります。『歩んでいます』と訳された言葉はペリパテオというギリシャ語ですが、回路であるとか、信仰によって巡回するという意味です。

わかりやすくいえば、神が用意した回路(サーキット)を進行することをいいます。

私たちのクリスチャンとしての人生は、地上での一時的な成果によって評価されるものではありません。信仰による歩みは、時に迷いや曲がり角を経験するかもしれませんが、神の視点から見れば、聖霊に導かれた私たちは神が定めた道を歩んでいます。パウロ、ファニー・クロスビー、ヘレン・ケラーの3人も同様でした。彼らは多くの困難に直面しましたが、それらの困難には深い意味があり、神の偉大な計画の一部であると信じて歩み続けました。短期的には多くの挫折を経験したかもしれませんが、最終的にはそれぞれの人生が神の栄光を映し出す作用となりました。

神から与えられた信仰に従い、私たちは人生の各段階で神が認めた道を歩むことができます。これは、神の意志の中を歩むことを意味しています。

また、ペリパテオ(回路を歩くの意)は、直線的な前進に関係なく、霊的冒険をも意味する言葉として紹介されています。 実際、主はしばしば信者を、地上の進歩を意味しないようなことであっても、主の御心のままに何かをするように導かれることがありますが、この際の歩みもペリパテオが意味する言葉です。

ピリピ人への手紙
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

ピリピ書でパウロは、神はご自身の意志に従い、私たち一人ひとりの内に働きかけて意志を固めさせ、行動を促してくださいますと教えてくれました。

私たちが抱くどのような動機であれ、神は私たちを導き、信仰を通じて私たちの人生の道を照らし、神が定められた目的地に到達するための力を与えてくださいます。

これは聖書が示す信仰に基づく歩みであり、信仰生活は神と共に歩むこと、そして単に神のために生きるのではなく、神と共に生きることを意味します。神は私たちを祝福し、私たちの祝福が神の栄光に寄与することを望んでおられます。

あなたがこの真理を信じるならば、それは幸いです。信仰は、私たちが直面する挑戦を乗り越え、より良い未来へと導く灯台のようなものです。
信じるならば、神は確かにあなたを祝福されます。アーメン。

日々の暮らしのなかで


内なる力を見いだせますか
これらの人物は、外的な障害や困難にもかかわらず、内なる信仰と決意によって大きな業績を達成しました。私たちも、自分自身の内にある信仰の力を発見し、それを生活のあらゆる面で活用することができます。

困難を乗り越える意志を持てますか
彼らは、困難や挫折を経験しながらも、それらを乗り越える強い意志を持っていました。私たちも、信仰によって困難に立ち向かい、それを成長の機会として捉えることができます。

神の計画を信頼できるでしょうか
 パウロ、ファニー・クロスビー、ヘレン・ケラーは、自分たちの人生が神の大きな計画の一部であると信じていました。私たちも、自分たちの人生が神の意志の中にあると信じ、神が定めた道を歩むことによって、神の栄光を反映する人生を送ることができます。

信仰をお持ちでない方のために
イエス・キリストを救い主であると信じてみてはいかがでしょうか。神は私たちの心を強めるだけではありません。神の導きを知り、神がともにあなたを支えてくれることを知ることができます。信仰を持つことは、不確実な中で希望を見出し、困難に立ち向かう勇気をいただくことができます。イエス・キリストを救い主として信じることをおすすめします。