ペテロ第一の手紙 2章24節 十字架を負うとは
新改訳 Ⅰペテロ2:24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ὃς τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν αὐτὸς ἀνήνεγκεν ἐν τῷ σώματι αὐτοῦ ἐπὶ τὸ ξύλον, ἵνα ταῖς ἁμαρτίαις ἀπογενόμενοι τῇ δικαιοσύνῃ ζήσωμεν: οὗ τῷ μώλωπι ἰάθητε.
はじめに
十字架を負うと聞くと、クリスチャンは、重荷を負うとか、負担する。苦労するというように感じてしまいます。クリスチャンになるのは嫌だと思うのは仕方ないでしょう。果たして、そうであるのでしょうか。御言葉を開いていきましょう。
十字架を負うことには順序がある
24節を見ていきますと、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。』とあります。本文では
ὃς τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν αὐτὸς ἀνήνεγκεν ἐν τῷ σώματι αὐτοῦ ἐπὶ τὸ ξύλον,
とあります。ここで注目すべき語句はἀνήνεγκεν(アネーネンケン)です。アネーネンケンの原型はἀναφέρω(アナフェロー)です。『負う』とここでは訳されています。この言葉は、ἀνα /aná、「上げる」+ φέρω/phérō、「持っていく、運ぶ」という言葉が合成した単語です。厳密には、ゴールに到達するといういう意味で、連続して何かを運び、必要な完了に到達するという意味です。
アナフェロー(「目標を達成する」)は、主に受け入れられる供物(犠牲)を捧げるために使用される語句です。
主に受け入れられる捧げものは、必要な手順を踏まなければなりません。私たちが罪から救われて神の子とされるためになされた、十字架の死と復活というものは、旧約聖書に示された贖いの手順に従ってキリストによって行われたものであったことを物語っています。
イエス・キリストの十字架の死はすでに、イザヤ書の書かれた紀元前8世紀には預言されていました。また、詩篇22篇にもイエスの十字架の預言が記されていますが、
詩篇22篇は特に驚くべき内容です。書かれた年代が千年以上前に下記のような具体的な預言がされています。
『メシヤは手足を刺し通されたこと』(詩篇22:16/ヨハネ20:25)『 メシヤの骨は砕かれないこと』十字架に架けられた人は、死を早めるため
に、すねの骨が折られる(詩篇22:17/ヨハネ19:33) 『メシヤの着物をくじで引くこと』(詩編22:18/マタイ27:35)
キリストは、神の声を聞き、聞いたことを行うことによって、私たちの罪を贖うことが、神によって受け入れられるという、霊的な犠牲をささげました。それがキリストが十字架を負ったということです。
神に受け入れられるいけにえ
私たちが、十字架を負うということは、神に受け入れられるいけにえを捧げていく歩みであるということです。その歩みは、神が決めた順序をたどります。たとえば、「善い行い」は、神の声を聞いてそれに従うことから始まります(ヨハネ2:14-26を参照)。
このようにして、主に捧げるということは、「ずっと運び続ける(アナフェロー)」ということです。どこへ向かって運び続けるのでしょうか。それは、神のご栄光です。Ⅰコリ 13:13 を見ますと、愛を通して完結します。
神のご栄光をあらわすというのは、義務ではないのです。神を愛することがそのゴールに向かうエネルギーになるわけです。神に受け入れられる供え物は、主によって始まり、主によって力を与えられます(運ばれます)
(1ヨハネ5:4と1ヨハネ4:17を参照)。
このようにして、人生のあらゆる場面が「生けるいけにえ」(ロマ12:1-3)になります。これは人生が義務の奴隷ではなく、喜んで仕えるということで、義務という奴隷状態からの克服できるのです。
キリストは、十字架に架けられましたが、それは、義務ではありませんでした。主を愛する最高の姿が、十字架でした。
彼がゴルゴダの丘に赴いていったのは、ローマの兵隊に強いられたものでもなく、死刑という刑に服したわけでもなく、彼は、積極的に神が決定された人間の救済の道を喜んで選択し、運んだ(アナフェロー)のです。
はたして十字架を負えるのだろうか
たしかに、主の十字架を負うということは困難が立ちふさがります。私自身は、開拓伝道を始めた際に、人の負担にならないようにしていこうと願っていました。なるべく負い目を負わないようにしたいと思っていたからです。できれば、自分ひとりで、主の十字架を担っていきたいと思いましたが、実際はそんな甘いものではなく、家内に負担をかけたり、母教会や先生方の励ましや支援を受けるなど、周囲に負担をかけてしまいました。自分の郷里でもない、初めて地で教会を建てられるのかどうか、不安がつねにつきまといました。
しかし、そうしたときに自分を鼓舞したのは、みことばであり、主のご臨在でした。主が私を励ましたのは、他でもない、主イエスの十字架と復活でした。
私たちが困難に対して力の源泉となるのは、この主イエスの十字架の死と復活であるのです。私たちの全生活、全生涯の導き手は主にこそあります。
私たちは、そこに焦点をあわせていくべきです。しかも、私たちの行動や生活を鼓舞してくれるのも、主であります。
ゴールに向かうには十字架を運ぶということ
イエス・キリストの生涯のゴールはどこであったかを考えてみますと、それは、復活でした。
復活の出来事は、私たちを死で終わる。敗北で終わる、老いて終わるというような敗北していく人間の生からの完全な勝利でした。完全な勝利を私たちに運ぶため(アナフェロー)に、主は肉体の苦しみの中にありながらも、神のみ心を成し遂げるという完全な喜びをいだきながら、ゴルゴダの丘に登っていきました。
彼は、十字架に架けられましたが、ローマの兵隊に架けられたということではなく、本当のところは、進んで志願して十字架に架かったのです。キリストの十字架の死はそこで終わったのではありません。
日曜日の明け方早く、キリストは墓からよみがえりました。キリストは、ゴルゴダの丘という地獄のような場所から、天へと私たちのいのちを運び上げた(アナフェロー)のです。こうして、キリストへの信仰を持つクリスチャンは、キリストによって、死からいのちへと変えられているのです。
このキリストのみわざと同じように私たちの人生も十字架を負うように変えられています。たしかに、目前には苦しみや困難が待ち受けているかもしれませんし、困難を避けたいという思いも込み上げてくるかもしれません。しかし、私たちは死や敗北で終わるのではありません。最終的なゴールは勝利であり、死からの完全な勝利に終わるのです。
私たちは、恐怖におののくこともあるかもしれませんが、主は私たちとともにあります。主の十字架を負うことを、負担を負うというようにとらえては誤りに陥ります。私たちは勝利と生を受け継ぐもの、運ぶものとして召されております。であるならば、私たちは、苦痛や困難が生じても、自分の十字架を喜んで運べるはずですし、そのように作り変えられていることを確信しましょう。
適 用
神の声を聞きましょう
私たちの日常生活において、神の声を聞くことは重要です。これは祈りや聖書の研究を通じて語りかけられます。もちろん、礼拝出席は最も大事なことです。神の声を聞くことで、私たちは神の意志を理解し、自分の行動を矯正することができます。こうして、私たちが十字架を負うことを可能にします。神を愛しましょう
私たちが十字架を負うことは、神を愛することから始まります。神を愛することは、私たちの行動や決定を導く原動力となります。神を愛することで、私たちは困難を乗り越え、十字架を負うことができるように変えられていくのです。信仰をもちましょう
私たちが十字架を負うことは、信仰を持つことによって可能になります。信仰は、私たちが神の約束を信じ、神の力を信頼することを意味します。信仰を持つことで、私たちは困難に立ち向かい、十字架を負うことができます。
Translation 聖書対訳
NASV
and He HimselfI bore our sins in His body on the cross, so that we might die to sin and liveD to righteousnessI; for by His wounds you wereI healed.
そして、彼自身が私たちの罪を十字架上の彼の体に負わせたので、私たちは罪のために死に、正義のために生きました。 彼の傷によってあなたは私が癒されたからです。
KJV
Who his own self bare our sins in his own body on the tree, that we, being dead to sins, should live unto righteousness : by whose stripes ye were healed.
自分自身が木の上の自分の体に私たちの罪を負わせたのは誰ですか、
私たち、罪のために死んでいること、義に生きるべきである:
あなたがたはその鞭打ちの傷によって癒された。
NKJV
2:24 who Himself bore our sins in His own body on the tree, that we, having died to sins, might live for righteousness-by whose stripes you were healed.
自分自身が木の上の自分の体に私たちの罪を負わせた者、
罪のために死んだ私たちが義のために生きるために-その鞭打ちの傷によってあなたは癒されました。
Lexicon レキシコン
ἡμῶν ἐγώ ,rp \{eg-o'}
Case G Number P
1) I, me, my
ἀνήνεγκεν ἀναφέρω,v \{an-af-er'-o}
Person 3 Tense A Voice A Mood I Number S
1)運ぶか育てる、1a)男性をより高い場所に導く2)祭壇を置く、祭壇に持って来る、提供する3)自分を持ち上げる、自分を引き受ける3a) 運ばれる荷物として自分自身に何かを置く3b)維持する、すなわち彼らの罰
σώματι σῶμα,n \{so'-mah}
Case D Number S Gender N
1)男性または動物の体1a)死体または死体1b)生きた体1b1)動物の体
2)惑星と星の体(天体)
3)1つの社会に緊密に統合された(多数または少数の)男性の使用、
またはそれがそうであった家族;社会的、倫理的、神秘的な体3a)新約の教会
4)影そのものとは区別して影を落とすもの
ἐπί,p \{ep-ee'}
1) upon, on, at, by, before 2) of position, on, at, by, over, against 3) to, over, on, at, across, against
ξύλον、n \ {xoo'-lon}
Case A Number S Gender N
1)木1a)木でできているもの1a1)誰もが吊り下げられる梁として、絞首台、十字架1a2)囚人の足、手、首が挿入されて固定された穴のある丸太または材木 ひも付き1a3)足の束縛、または束縛1a4)棍棒、棒、杖2)木
ἵνα,c \{hin'-ah}
1) that, in order that, so that
ἀπογενόμενοι ἀπογίνομαι
Tense A Voice M Mood P Case N Number P Gender M
1)離れるには、削除する2)離れている、人生を離れる、死ぬ
δικαιοσύνη n \{dik-ah-yos-oo'-nay}
Case D Number S Gender F1)広い意味で:彼が本来あるべき状態、正義、神に受け入れられる状態1a)人が神の承認された状態に到達する方法に関する教義1b)誠実さ、美徳、純粋さ 人生、正しさ、思考感覚の正しさ、そして行動2)より狭い意味で、正義またはそれぞれに彼の正当性を与える美徳
ζήσωμεν ζάω、v \ {dzah'-o}
Person 1 Tense A Voice A Mood S Number P
1)生き、呼吸し、生きている(死んでいない、死んでいない)中にいる2)現実の生活を楽しむ2a)本当の人生を持ち、名前にふさわしい2b)神の国で活動し、祝福され、終わりがない3) 3a)死すべき者または性格の生き方と行動の仕方で生きる、すなわち人生を渡す4)生きている水、それ自体に生命力を持ち、魂に同じことを及ぼす5)メタフ。 5a)新鮮で、強く、効率的である、5b)形容詞として。 アクティブ、パワフル、効果的
μώλωπι μώλωψ、n \ {mo'-lopes}
Case D Number S Gender M
1)血で滴る打撲傷、傷、傷、鞭打ちの傷
ἰάθητε ἰάομαι、v \ {ee-ah'-om-ahee}
Person 2 Tense A Voice P Mood I Number P
1)治癒し、癒し、2)全体を作り、2a)誤りや罪から解放し、(自分の)救いをもたらす
画像:👀 Mabel Amber, who will one dayによるPixabay