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ペテロ第一の手紙 2章24節     十字架を負うとは

新改訳 Ⅰペテロ2:24 
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ὃς τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν αὐτὸς ἀνήνεγκεν ἐν τῷ σώματι αὐτοῦ ἐπὶ τὸ ξύλον, ἵνα ταῖς ἁμαρτίαις ἀπογενόμενοι τῇ δικαιοσύνῃ ζήσωμεν: οὗ τῷ μώλωπι ἰάθητε.

https://youtu.be/OmlkK2ShcpM


はじめに

十字架を負うと聞くと、クリスチャンは、重荷を負うとか、負担する。苦労するというように感じてしまいます。クリスチャンになるのは嫌だと思うのは仕方ないでしょう。果たして、そうであるのでしょうか。御言葉を開いていきましょう。

十字架を負うことには順序がある

ペテロの手紙第一2章24節の記述は、イエス・キリストの贖罪の業を、霊的かつ重層的に表現しています。原文のギリシャ語で用いられている「ἀνήνεグケν」(アネーネンケン)という動詞は、「ἀναφέρω」(アナフェロー)の変化形であり、その語源的意味は非常に示唆に富んでいます。この語は「上げる」を意味する「ἀνα」(アナ)と、「持っていく、運ぶ」を意味する「φέρω」(フェロー)という二つの要素から構成されています。この合成語は単なる「負う」という意味を超えて、目標達成に向けた継続的な行為、そして最終的な完遂を含意しています。

この「アナフェロー」という語は、宗教的文脈において特に重要な意味を持ちます。それは主に、神に受け入れられる供物や犠牲を捧げる行為を指し示すのに用いられる表現です。つまり、イエス・キリストが十字架上で私たちの罪を負われたという記述は、単に罪の重荷を背負ったという以上の意味を持っています。それは、旧約聖書に示された贖罪の儀式的手順に則って、完全な犠牲としての役割を果たされたことを意味しているのです。

このキリストの贖罪の業は、驚くべきことに、その実現よりはるか以前から預言されていました。例えば、紀元前8世紀に記されたイザヤ書には、すでにイエスの十字架の死についての予言が含まれています。さらに注目すべきは、それよりさらに古い詩篇22篇に見られる預言です。この詩篇には、キリストの受難に関する具体的かつ詳細な描写が含まれており、その正確さは驚嘆に値します。

例えば、メシアの手足が刺し通されること、その骨が砕かれないこと、そして着物がくじ引きで分配されることなどが、千年以上も前に予告されていたのです。これらの預言は後に、福音書の記述によって、イエス・キリストの十字架上での出来事として確認されることとなりました。

このように、キリストの十字架は単なる歴史的出来事ではなく、神の永遠の計画の成就として理解されるべきものです。キリストは神の声に従い、その意志を完全に実行することで、私たちの罪を贖う霊的な犠牲をささげられました。これこそが、「キリストが十字架を負った」という表現の深い意味なのです。この行為は、人類の罪の問題に対する神の完全な解決策であり、私たちに救いをもたらす神の愛の究極的な表現となったのです。

神に受け入れられるいけにえ

ペテロの手紙第一2章5節は、私たち信仰者の霊的な役割と責任について霊的な洞察を提供しています。この聖句は、私たちが「生ける石」として霊的な家に築き上げられ、聖なる祭司としてイエス・キリストを通じて神に喜ばれる霊的ないけにえをささげるよう促しています。この概念は、私たちの日常生活における霊的な歩みの本質を示しています。

私たちが「十字架を負う」という表現は、単なる比喩以上の意味を持ちます。それは、神に受け入れられるいけにえを継続的に捧げていく生き方を意味します。この歩みは、神が定められた順序に従って進められます。例えば、「善い行い」は、神の声を聞き、それに従うことから始まります。これは、ヨハネによる福音書2章14-26節に示されているように、神の言葉に耳を傾け、それを実践することの重要性を強調しています。

この「捧げる」という行為は、ギリシャ語の「アナフェロー」が示すように、継続的な過程です。私たちは神の栄光を目指して、絶え間なく霊的ないけにえを捧げ続けるのです。コリント人への手紙第一13章13節が教えるように、この旅の究極的な目標は愛を通じて達成されます。信仰、希望、愛の中で最も優れているのは愛であり、これが私たちの霊的な歩みの頂点となります。

重要なのは、神の栄光を現すことが義務ではなく、神への愛がその動機となることです。神に受け入れられる供え物は、主によって始められ、主の力によって支えられます。ヨハネの手紙第一5章4節と4章17節が示すように、神によって生まれた者は世に勝つ力を持ち、キリストと同じような者となることができるのです。

この霊的な歩みによって、私たちの人生のあらゆる側面が「生けるいけにえ」となります。ローマ人への手紙12章1-3節が教えるように、これは私たちの体を神に喜ばれる、聖なる、生きた供え物としてささげることを意味します。この姿勢は、義務の奴隷となるのではなく、喜んで神に仕えることを可能にします。それは、心の一新によって自分を変え、神のみこころを知り、それに従って生きることを意味します。

イエス・キリストの十字架は、この霊的ないけにえの究極の模範です。キリストがゴルゴダの丘に向かったのは、強制や義務からではありませんでした。それは、神の定められた人類救済の道を自ら選び、喜んで歩まれたのです。この「アナフェロー」、すなわち継続的に運び続けるという行為は、キリストの愛と従順の完全な表現でした。

このように、私たちの霊的な歩みは、単なる規則の遵守ではなく、神への深い愛と信頼に基づく継続的な献身の過程なのです。それは、日々の生活の中で神の栄光を現し、キリストの愛を反映させる生き方を意味します。この歩みを通じて、私たちは真の自由と喜びを見出し、神の計画の中で自分の役割を果たすことができるのです。

はたして十字架を負えるのだろうか

主の十字架を負うという召命は、確かに多くの困難を伴う道程です。開拓伝道を始められた際の経験は、この真理を如実に表しています。当初の願いは、他者に負担をかけることなく、できる限り自立して主の業に励むことでした。これは、周囲に負い目を感じることなく、独力で十字架を担いたいという純粋な思いから生まれたものでしょう。

しかし、現実はそのような理想とはかけ離れていました。家族、特に配偶者に負担をかけ、母教会や指導者たちの励ましと支援なしには立ち行かない状況に直面されたのです。見知らぬ土地で新たに教会を設立するという挑戦は、絶え間ない不安と戦いの連続だったことでしょう。

このような試練の中で、真の力と慰めの源となったのは、神のみことばと主の臨在でした。特に、イエス・キリストの十字架と復活の真理が、最も力強い励ましとなりました。これは、私たちクリスチャンにとって普遍的な真理です。困難や試練に直面したとき、私たちの力の源泉となるのは、まさにこの主イエスの十字架の死と復活なのです。

この真理は、単に困難な時期を乗り越えるための一時的な励ましではありません。むしろ、私たちの全生涯、全生活を導く羅針盤となるべきものです。私たちの人生の方向性、日々の決断、そして長期的な目標設定において、常に主イエスの十字架と復活に焦点を合わせていく必要があります。

さらに重要なのは、この焦点が単なる観念的なものではなく、実際の行動や生活の原動力となることです。主イエスの十字架と復活は、私たちの内なる変革をもたらし、日々の生活の中で具体的な形で現れていくのです。それは、困難に立ち向かう勇気、他者への愛と奉仕、そして神の栄光を現す生き方として表現されます。

このように、主の十字架を負うという召命は、個人の力や能力を超えた、神の恵みと力に全面的に依存する歩みです。それは時に重荷に感じられることもありますが、同時に深い喜びと平安をもたらす道でもあります。なぜなら、この道を歩むことで、私たちは主イエスの足跡をより深く辿り、神の計画の中で自分の役割を果たすことができるからです。

結局のところ、私たちの生涯における真の成功と満足は、この主イエスの十字架と復活に焦点を合わせ続けること、そしてそれによって鼓舞され、導かれることにあるのです。これこそが、キリストに従う者としての本質的な生き方であり、神の栄光を現す最も確かな道なのです。

ピリピ書
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

ゴールに向かうには十字架を運ぶということ

イエス・キリストの地上での生涯を振り返ると、その究極の目標が復活にあったことが明らかになります。この復活の出来事は、人類史上最も重要な転換点の一つと言えるでしょう。それは単なる個人的な勝利ではなく、人類全体に関わる根本的な変革をもたらしました。

人間の生は通常、死や敗北、老いという避けられない終焉に向かっていきます。しかし、キリストの復活は、このような人間の宿命に対する完全な勝利を示しました。この勝利を私たちにもたらすため、主イエスは「アナフェロー」、すなわち継続的に運び続けるという行為を体現されました。ゴルゴダの丘への道のりは、肉体的には極度の苦痛を伴うものでしたが、主は神のみ心を成し遂げるという完全な喜びを抱きながら、その道を進まれたのです。

十字架刑は、表面的にはローマ帝国による刑罰執行のように見えました。しかし、より深い真理は、キリストが自ら進んでこの道を選ばれたということです。十字架の死は終わりではなく、新しい始まりの序章でした。日曜日の早朝、キリストは墓から復活されました。この出来事は、キリストが私たちの命を、ゴルゴダの丘という地獄のような場所から天へと運び上げられた(アナフェロー)ことを象徴しています。

この驚くべき出来事により、キリストを信じる者たちは、死からいのちへと根本的に変えられました。私たちの人生の意味と方向性が一変したのです。キリストの御業に倣い、私たちもまた自分の十字架を負うように召されています。

確かに、私たちの前には様々な苦しみや困難が待ち受けているかもしれません。時には、これらの試練を避けたいという強い思いに駆られることもあるでしょう。しかし、キリストの復活の光の中で、私たちは新しい視点を得ることができます。私たちの人生の最終的なゴールは、もはや死や敗北ではありません。それは、死に対する完全な勝利であり、永遠のいのちです。

このような確信は、現実の困難や恐れを無視するものではありません。時に私たちは恐怖におののくこともあるでしょう。しかし、そのような時こそ、主が共にいてくださることを思い出す必要があります。十字架を負うことを単なる重荷や負担としてとらえるのは、その本質を見誤ることになります。

私たちは、勝利といのちを受け継ぎ、それを世界に運ぶ者として召されているのです。この視点に立つとき、私たちは苦痛や困難に直面しても、自分の十字架を喜びをもって担うことができるはずです。なぜなら、私たちはキリストの復活の力によって、すでにこのように変えられているからです。

この確信は、私たちの日々の生活に深い影響を与えます。困難に直面したとき、それを単なる試練としてではなく、キリストの勝利に与る機会として見ることができます。私たちの苦しみは、キリストの苦しみと結びついており、それゆえに意味があるのです。

最終的に、私たちの人生の目的は、キリストの勝利の証人となることです。私たちが日々の生活の中で十字架を負い、それでも喜びと希望を持ち続けるとき、世界はキリストの復活の力を目の当たりにするのです。これこそが、私たちクリスチャンの究極の召しであり、特権なのです。アーメン

適 用


  1. 神の声を聞きましょう
    私たちの日常生活において、神の声を聞くことは重要です。これは祈りや聖書の研究を通じて語りかけられます。もちろん、礼拝出席は最も大事なことです。神の声を聞くことで、私たちは神の意志を理解し、自分の行動を矯正することができます。こうして、私たちが十字架を負うことを可能にします。

  2. 神を愛しましょう
    私たちが十字架を負うことは、神を愛することから始まります。神を愛することは、私たちの行動や決定を導く原動力となります。神を愛することで、私たちは困難を乗り越え、十字架を負うことができるように変えられていくのです。

  3. 信仰をもちましょう
    私たちが十字架を負うことは、信仰を持つことによって可能になります。信仰は、私たちが神の約束を信じ、神の力を信頼することを意味します。信仰を持つことで、私たちは困難に立ち向かい、十字架を負うことができます。

Translation 聖書対訳

NASV
and He HimselfI bore our sins in His body on the cross, so that we might die to sin and liveD to righteousnessI; for by His wounds you wereI healed.
そして、彼自身が私たちの罪を十字架上の彼の体に負わせたので、私たちは罪のために死に、正義のために生きました。 彼の傷によってあなたは私が癒されたからです。

KJV
Who his own self bare our sins in his own body on the tree, that we, being dead to sins, should live unto righteousness : by whose stripes ye were healed.
自分自身が木の上の自分の体に私たちの罪を負わせたのは誰ですか、
私たち、罪のために死んでいること、義に生きるべきである:
あなたがたはその鞭打ちの傷によって癒された。

NKJV
2:24 who Himself bore our sins in His own body on the tree, that we, having died to sins, might live for righteousness-by whose stripes you were healed.
自分自身が木の上の自分の体に私たちの罪を負わせた者、
罪のために死んだ私たちが義のために生きるために-その鞭打ちの傷によってあなたは癒されました。

Lexicon レキシコン

ἡμῶν ἐγώ ,rp \{eg-o'}
Case G Number P
1) I, me, my

ἀνήνεγκεν  ἀναφέρω,v \{an-af-er'-o}
Person 3 Tense A Voice A Mood I Number S
1)運ぶか育てる、1a)男性をより高い場所に導く2)祭壇を置く、祭壇に持って来る、提供する3)自分を持ち上げる、自分を引き受ける3a) 運ばれる荷物として自分自身に何かを置く3b)維持する、すなわち彼らの罰

σώματι  σῶμα,n \{so'-mah}
Case D Number S Gender N
1)男性または動物の体1a)死体または死体1b)生きた体1b1)動物の体
2)惑星と星の体(天体)
3)1つの社会に緊密に統合された(多数または少数の)男性の使用、
またはそれがそうであった家族;社会的、倫理的、神秘的な体3a)新約の教会
4)影そのものとは区別して影を落とすもの

ἐπί,p \{ep-ee'}
1) upon, on, at, by, before 2) of position, on, at, by, over, against 3) to, over, on, at, across, against

ξύλον、n \ {xoo'-lon}
Case A Number S Gender N
1)木1a)木でできているもの1a1)誰もが吊り下げられる梁として、絞首台、十字架1a2)囚人の足、手、首が挿入されて固定された穴のある丸太または材木 ひも付き1a3)足の束縛、または束縛1a4)棍棒、棒、杖2)木

ἵνα,c \{hin'-ah}
1) that, in order that, so that

ἀπογενόμενοι ἀπογίνομαι
Tense A Voice M Mood P Case N Number P Gender M
1)離れるには、削除する2)離れている、人生を離れる、死ぬ

δικαιοσύνη n \{dik-ah-yos-oo'-nay} 
Case D Number S Gender F1)広い意味で:彼が本来あるべき状態、正義、神に受け入れられる状態1a)人が神の承認された状態に到達する方法に関する教義1b)誠実さ、美徳、純粋さ 人生、正しさ、思考感覚の正しさ、そして行動2)より狭い意味で、正義またはそれぞれに彼の正当性を与える美徳

ζήσωμεν ζάω、v \ {dzah'-o}
Person 1 Tense A Voice A Mood S Number P
1)生き、呼吸し、生きている(死んでいない、死んでいない)中にいる2)現実の生活を楽しむ2a)本当の人生を持ち、名前にふさわしい2b)神の国で活動し、祝福され、終わりがない3) 3a)死すべき者または性格の生き方と行動の仕方で生きる、すなわち人生を渡す4)生きている水、それ自体に生命力を持ち、魂に同じことを及ぼす5)メタフ。 5a)新鮮で、強く、効率的である、5b)形容詞として。 アクティブ、パワフル、効果的

μώλωπι μώλωψ、n \ {mo'-lopes}
Case D Number S Gender M
1)血で滴る打撲傷、傷、傷、鞭打ちの傷

ἰάθητε ἰάομαι、v \ {ee-ah'-om-ahee}
Person 2 Tense A Voice P Mood I Number P
1)治癒し、癒し、2)全体を作り、2a)誤りや罪から解放し、(自分の)救いをもたらす

画像:👀 Mabel Amber, who will one dayによるPixabay