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偏見が広げる世界 -マレーシアのボルネオインターン紀行 ホームレス編-

「アイムルッキングフォーマイハウス」
灼熱の炎天下、遠い異国の土地で道ゆく人に声をかける。あたりには日本人はおらず、ぼろい車の排気ガスや、剥き出しの工事現場から、風が得体の知れない匂いと共に砂塵を運ぶ。両脇にはスーツケース。なぜこんなことになってしまったのだろう。

大学3年生の終わり頃、就職先が決まった私は、所属する会社の海外部署にどうしても所属したかった。ただ、学生が海外の部署に所属したい! と叫んでも願いを叶えてくれるほど大人は甘くないと考え、学生のうちに実績を作ろうと、入社までの期間に海外インターンをすることにした。

観光系の会社に行くことが決まっていたので、観光に力を入れている国で働きたい。そして、できるだけ生活費用が安い国にしよう。調べると、マレーシアの離島にある政府観光局でインターンの募集がオープンしていた。募集要項を読むと、宿泊付き、給料つき、なんなら朝ごはんが出る。なんて素晴らしいインターンなのかと感動した。

初めて英語で書く履歴書。なんとか内容を埋めて、提出する。すると、1週間後に人事担当から連絡が来た。内容は、とりあえずマレーシアに来てくれとのこと。なんて適当なのだろうと思いつつ、両親から餞別にもらった5万円と共に、マレーシアに向かった。

現地について、街を探索してみる。町を縦断する大きな川が名所のその土地の空気は、不思議な匂いがした。川辺に沈む夕日を見ながら、この機会を活かして絶対に成長しようと心に誓った。

次の日、緊張しながら職場に赴き、仕事だけでなく給料、宿泊先のことを聞いた。これが、悲劇の始まりであった。

「そんなものないよ。なにせ、あのHPは数年前から更新していない」

やばい、と思った。給料も宿泊先もないなんて、このままでは1ヶ月後には無一文になる。なんとか給料だけでも出ないかと交渉すると、こう言われる。

「日本人だからお金持っているでしょう。だから大丈夫だ」

彼らは日本人に対して「お金を持っている」という根拠のないステレオタイプを持っていた。時として、相手が思っている印象は、事実をねじ曲げる以上に、現実のコミュニケーションを歪めてしまう。それから何をいってもこのステレオタイプは揺るがなかった。私は、帰国するまでの間、この「日本人はお金持ちだ」という偏見に悩まされ続けた。

まだお金があるうちに宿泊先を決めなければならない。そんなプレッシャーを抱えながら、毎日炎天下の中スーツケースを抱えては、宿を巡り宿泊費の交渉をする毎日。しかし、全く安い宿が見つからない。どうしようと途方に暮れる暇なく、日々お金がなくなっていく。とにかくお金は使えない。だんだんと疲弊していく中で、思いつく。そうだ、泊めてくれる宿が見つからないなら、タダで泊めてくれる人を探そう。なぜこの危険な考えに至ったのか分からない。でも、なくなりつつあるお金を前に、もはや怖いものはなかった。

「アイムルッキングフォーマイハウス」
道ゆく人にひたすら声をかけたが、誰に声をかけても、「日本人はお金を持っているのだから冗談だろう」と、偏見の壁に阻まれ相手にされない。途方に暮れていると、あるアイデアが浮かぶ。そうだ、彼らが抱く偏見を逆手に取ればいいのではないか。

日本人はお金を持っていることだけでなく、英語は話せないという印象を抱いている。加えて、この田舎には日本人はいない。ということは、珍しい日本人が自分の家に泊まったと言えば、職場や学校でまあまあ話題になるのではないかと仮説を立てた。

「日本語を教えてあげるよ」

「アニメの話をしない?」

「東京って知っている?」

もはや、センスのないナンパに近いが、どうこういっている余裕はない。とにかく、日本人という無形の価値を与えることだけに集中して声をかけ続けた。意外にもこの作戦はうまく行き、日々新しい友人ができた上に、ご飯と寝床を施してもらえる機会が増えた。

そして、ある時、こうした偏見に逸れたことを言うことがまた驚きを呼ぶことを理解した。日本人なのにお金がない。日本人なのに英語が話せる。日本人なのにこんな場所にいる。あえて偏見通りに行動することも喜ばれたが、偏見の枠から外れることで、彼らの世界が広がっているように見えた。

最終的に、友人が友人を呼び、毎日誰かの家に泊めてもらうことができた。そして仲良くなった10人の現地人とシェアハウスをすることになった。代金はなんと月3000円。ようやく定住できる家ができたと安堵したあの日のことを忘れることはない。

「交」流の交は「交」換の交と同じ字である。海外に行くと視野が広がった、という感想をよく聞く。しかし、受け取るだけではなく等価交換をすることが、本当の交流なのではないかと思う。自分の視野を広げるだけでなく、相手の視野を広げることにもまた価値がある。

偏見はコミュニケーションをするときに利用できることを学ぶ。相手の想像通りに行動することによって、ああやっぱそうなのだと、相手は満足する。一方で、期待通りでないことも、相手にとっての新発見となる。偏見は、視野を狭めるのではなく、交流を広げるチャンスなのだ。その偏見が狭ければ狭いほど、違いに気づいたときの驚きと喜びは大きい。

日本に帰国するとき、路上で出会った大切な家族たちが見送ってくれた。そのとき、ああ、この場に苦労してきたことは無駄ではなかったのだと気づいた。彼らから受けたこの偏見が、私の世界を広げてくれた。飛行機が飛び、小さくなっていくその島を見ながら、路上で得た思い出の大きさに想いを巡らせた。


《終わり》



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