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経験という名の物差し #自分にとって大切なこと

大学受験の合否が発表される時期になると、塾の講師をしていた時のことを思い出す。

学生時代にアルバイトをしていた塾は「できない」を「できる」ようにするがコンセプトの塾だった。入塾者の多くは、勉強が苦手と思っている学生が多く在籍していた。

塾の講師を始めてから、先輩にカリキュラムの作り方を学び、学習計画を作成する。作成した計画をもとに、親と本人と面談し、勉強のスケジュールを一緒に立てていく。

だが、計画を立てるところまではうまくいくのだが、実行になると話が変わってくる。宿題をいろんな理由をつけてやってこなかったり、授業を話半分に聞いていたり。

自分が学生の時を振り返れば、まあなんとなく気持ちは分からなくもないのだけど、教師の立場からどうにか勉強をするよう試行錯誤しながら指導していく。

例えば、こういうやり方をすれば点数が上がるとか、勉強のリズムを変えてみよう、とか。自分の経験を交えながら説得を試みる。

でも、そんなアドバイスでは当事者は絶対に動かない。正確にいうとすれば、少しは話を聞いてくれて「やる気スイッチ」が継続するのであるが、すぐにまた「やらないモード」に戻ってしまう。

なぜだろう。教え方がまずいのだろうか。教える才能がないのだろうか。自分ならこうするのに。自分が受験をしたときは…。などと思いを巡らせる。すると、「自分なら」という言葉を多く使っていることに気づく。

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私は何かを教える時に、無意識に自分の経験という定規で物事を測っていた。この単語帳がいい、というのも、昔自分が使っていたから。この勉強の方法がいい、というのもそれで受験がうまくいったから。自分がしたことがないことは、わからないし自信がないから教えられない。経験に裏打ちされていないと自信が持てない。

まあそうかのかもしれないが、教えている対象は「自分」ではないのだ。その人なりの個性があり、経験があり、人生がある。ということは、必ずしも自分の正解がその人に当てはまるとは限らない。教えている生徒に寄り添い、同じ目線で、何に困っているのかをしっかり把握することが大事なのではないか、という結論に至った。

そして、その考えのもと、授業を行っていく。個別指導の利点を生かし、授業の前半に世間話を繰り返し、やんわりとなぜ塾に来たのかを聞くことにした。すると、生徒それぞれが「できない」と思うようになった経験、理由があることに気づく。

期末試験対策をしっかりしたのに、思うように成果が出なかったことで「頑張ること」を諦めた生徒。授業中に正解が答えられず恥ずかしいと思った経験が、そのまま「苦手」という意識に結びついた生徒。テストを受けて低い点を取った結果、自分の限界値をその点数だと思い込んでいた生徒。

奇しくも共通していたこととしては、勉強に対する自信がないことであった。自信を失ってしまったことで、自分の能力に線を引く。傷つくことを恐れるあまり、できないという認識から入り、予防線をはる。

この課題感を理解せず、「勉強をしましょう」と言うのは、ちょっと暴力的な気がした。それから、彼らの経験に裏打ちされたこの「苦手意識」を変えるにはどうしたらいいのか考えるようになった。

勉強方法を一人一人の気持ちに合わせて改めて作り直す。試行錯誤をしながら、とにかく「できる」と自己認識してもらう仕組みを作ること。そのために、スモールステップで少しずつ授業を進めながらも、「自分でできた」と実感が湧くような工夫をする。

ある生徒は、学校のテストを軽視していた。そこで、次のテストにターゲットを定め、計画を組んだ。そして、英語のテストに関しては初めて90点台を取ることができた。常に50点台であったその子は、自分も高得点が取れると自己認識することができた。徐々に自信を取り戻し、成長していく様子は、自分ごとのように本当に嬉しかったことを覚えている。

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人の一生を左右する場面で、その人に寄り添うことは、正直かなり怖い。あらゆる怖さは「わからない」が由来な気がする。わからないから怖い。だからこそ、無意識に「経験という名の物差し」を使い、自分の成功体験をベースに当てはめてしまうことがある。

けれど、教えている相手は自分ではない。あくまで他者なのだ。他者は、他者なりの悩みがある。経験がある。課題がある。それを第三者としてどう解決するか。

まずは理解すること、寄り添うことだと思う。相手にはなれないにしろ、できるだけ相手の気持ちになり、なぜ課題を感じているのかを考える。そして、解決するために何ができるかを一緒に考える。自分の経験の物差しで測るのではなく、あくまで相手の視点で考える。シンプルだけど、塾の講師の経験から学び、今でも大事にしていることだ。

それぞれの受験に伴走したあと、塾の講師のやりがいに気付く一方で、人の人生に関わる怖さから、講師を辞めることを決意した。

辞める時、生徒から手紙をもらった。その中に、「自分も夢をかなえるために勉強を頑張るから、先生も自分の夢を見失わないで」と書かれてあるのを読んで、何とも言えない気持ちになった。当たり前かもしれないが、彼らもまた、自分を見ていた。

受験という、人生の中で短い期間であったが、自分と関わることで、少しでもいい方向に人生が進んでいることを願わずにはいられない。

次にどこかで偶然出会った時は、きっともう私の物差しで測れないだろう。今の彼らのフィルターから、自分はどう映るのだろうか。お互い大人になった今、もしも偶然また会う時がきたら聞いてみたいと思う。

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