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事件の真相を探るより重要なこと

国内外で衝撃の事件が起こると、様々な報道が次々なされ、解釈や解説、憶測が飛び交います。現在はSNSなどで事件の当事者が発信したり、断片的な情報をみたり繋げたりして、肩書の立派な専門家から一個人までもが気楽に意見や感想を発信したりできます。

直近では、米トランプ大統領銃撃事件。銃撃事件つながりだと、2年前の安倍総理銃撃事件や60年以上前のケネディ大統領暗殺事件なども、今も真相はどうなんだろう?と追及する人はいます。

もちろん人間には探求心もあるし、メディアの情報や公式見解の論理矛盾に気づき「ん???」と思うのは当然のこと。偏向報道や情報統制を感じれば感じるほど、自分のいる世界や社会を知りたい、謎を解いてスッキリしたい、治安などを確認して安心したい、備えたいという思いは誰しもあります。

だから、社会に問題意識を持つことや、未知のことを知ろうとすること自体が問題なわけでもないのです。また、見ない方がいい、知らない方がいいと言っているわけでもありません。ただ、"正しい答え"を求めて「外の世界」にいつまで、どこまで、深入りする?というもうひとつの視点もある、という角度からのお話です。


1.立場の違い

まず、その事件にどうかかわっているか、どれだけ一次情報や前提知識を持っているか、それらを持つ必要があるのかで随分、立場と状況が変わってきます。立場というのは、誰のファンとか推しとか、右派左派とかではなく…

☐ ①その事件や事象の当事者や関係者?
☐ ②捜査機関や報道関係者や関連の専門家?
☐ ③それ(①②)以外?

☑①当事者や身内などの関係者ならば、状況を把握して身の安全の確保も必要ですし、賠償を求めたり裁判などするなら「事実」を知ることは重要になります。そして、☑②捜査機関で担当になっていたり、ジャーナリストなど報道関係者や関連の専門家ならば、職務や立場として事件の真相を探求するのは立場上職務上当然ですし、それが使命の人もいます。

でも、☑③部外者ならば、ちょっと立ち止まってもよいと思うのです。

2.「それ以外の人」が立ち止まって確認したいこと

衝撃の事件勃発、TVや新聞での報道、SNSからの大量の情報の流入・・・、公式見解への疑問。感覚の鋭いタイプの人は矛盾に気づきやすく、モヤモヤしがちですが、そこで、ちょっとひと呼吸。そして、自分の心に問いかけてみてほしいのです。

① なぜ自分はこれを見せられているのか?
② なぜ自分は揺さぶられるのか?
③ 何のために知りたいのか?発信したいのか?
④ 逆に、自分がみていないものは何か?

まず、「①なぜ自分はこういう事件を見せられているのか?」というところがあります。時代の過渡期で、社会の価値観が変わっていくときなので、国内外で事件や事故天変地異など様々なことが起こります。一方知らずに終わっていく世界中の出来事も日々山のようにあります。その中で、なぜ自分はこういう出来事を見せられているのか?という視点をもつことで、自分と社会の現在地や、これからの時代の流れ、自分の選びたい未来について考えるきっかけにもできます。

次に、「②なぜ自分は揺さぶられるのか?」。同じ事件のニュースを見ても全然興味のない人もいれば、強く興味を持つ人もいます。都市伝説をエンタメで楽しむくらいの興味の持ち方ならダメージがないのですが、世界が💦日本が💦自分が💦どうなってしまうのか・・・と、心が揺さぶられて情報収集の沼に陥り、恐怖や怒りでぶるぶる震えてたりする人もいるのです。その違いは何か?というメタな視点をもってみるとよいかもしれません。ある人は常日頃から潜在意識にある不安や恐怖や怒りや疑心暗鬼が事件報道とともに表面化しているだけかもしれないですし、ある人は事件当事者や現場と自分と自分がいま居る環境を一体化・同一視しすぎているのかもしれません。

なので、「③何のために知りたいのか」を自分に問いかけて、意識してみることで見えてくることもあるかもしれません。また、現在は誰もが気軽に発信できる時代で、反射的に情報拡散したり、反射的に断片的な情報に基づいた感情の発散や感想を拡散できます。ただの浅はかな考察、勘違い、溜まった感情の垂れ流しをすれば、同じタイプのひとは同調するかもしれませんが、そういう人なんだと冷静な受け手は思うまでです。だから、「それ発信した先で何したいの?」というところや影響力も意識したいものです。また、最近のSNSは視聴率稼ぎのために、あえて不安や恐怖を煽るものも多いので、情報収集の際はその点も認識して注意が必要です。

そして、結構重要なのが、衝撃の事件、怒涛のように流れ込む情報、感情を揺さぶられる自分のなかで、「④逆に、自分が見ていないものは何か?」という視点だと思うのです。ひとつは、メディアの報道が偏向していると、今流れている情報はどういう情報なんだろう?なぜこの角度の情報がたくさん流れ込んでいるのだろう?この時間に流されないニュースもあるかもしれない?そういう意味で、「何を見せられていないのだろう?」という外部への視点もあります。もうひとつは、事件の真相探求に夢中になっているのは「本当は自分の中にある何を観たくないからなんだろう?」という内面への視点です。自分の私生活や内面の実はうまくいっていない点をみないようにしたり誤魔化す口実に、社会的な事件や社会的な活動はとても便利なのです。

3.人は皆「部分的に正しい」。「正しい」の先の世界へ…

盲人たちがそれぞれ象をさわって感想を言ったところ、全員違う意見になった(耳を触った人はウチワのようだ、足を触った人は木の幹のようだ、尻尾を触った人はロープのようだ)という群盲象を評すの寓話の例ではないですが…どんな断片的な情報でもある意味、皆「部分的に正しい」といえるわけです。逆に…皆「全体像なんて見えてない」。報道関係者や知識豊富な専門家でさえ、逆にその知識や業界の固定観念にしばられて本質を見落としてしまうという盲点があるわけです。

時代の価値観が変わりゆく中で、人それぞれの価値観や文化背景も違う、前提知識も違う、入手している情報の量や質も違う。しかも、ここ最近「変数」が多すぎるんですよね。そんな中で錯綜する両極端の様々な情報のなかからどれがフェイクか偽善が真相か、あっち系こっち系などと「正しいの追及」「正義の主張」したところで、エンドレスな正しいの主張ループ∞になりかねません。そもそも社会的事件の正解にたどり着くことが自分の人生にとってどれだけ重要?

もちろん、これを「正義の主張相撲エンタメ」「未解決事件の真相追求が趣味」という刺激を楽しむのはアリなのかもしれませんが…。それはその自覚があればこそ、楽しめるものですよね。

結局私たちは今「正解なんて誰もわからない」世界で、各自自分なりの選択を日々しながら生きていくゾーンに突入しているわけです。だから、自分の選択を決めたら、その後で、正しさを求めて対立したり、逆サイドを排除するようなことを終えていく時期なのかもしれません。

かつて社会的な情報収集の目的は「この社会の正解」「上手にレールにのること」を学ぶことにありました。でも、正解が多様化した今は自分と周囲と相手の流れをみながら、「この人はこういう背景と前提だからこういう立場をとってこんな意見を言っているのだ」と瞬時に見抜き、相手の思考パターンを理解するためのものに変化してきたようにも感じています。

衝撃的な事件の真相を探るより重要なこと。それは、なぜそれを見ているのか?なぜそれに反応しているのか?それによって見ていない自分の外と内にあるモノコトは何か?に意識を向けることなのかもしれません。個人的には様々な思想や考え方の人たちの集合体として、たくさんの「正しい」を観測したり配置したりしながら、これからどういう世界🌏💫をつくっていきたいかに意識をむけていきたいです。

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