最近の記事

夏の酒器

石田 瑞穂(詩人)  梅雨の足音が聴こえだすと、土物の徳利を時代箱に仕舞い、夏の酒器をいそいそとりだす。  地球温暖化の高温多湿で、わが家の古徳利たちはたちまち黴てしまうようになり、とても夏はつかえなくなった。このことは、いまやおおくの酒器好きの悩みの種ではないか…。  今年もお世話になるのは、江戸時代中期の作といわれる、古瀬戸麦藁手片口茶碗である。ぼくは、近年、これを酒器に見立てて愛用してい、もはや夏の晩酌には欠かせない存在になっている。その名の通り、もとは夏茶碗とし

    • Absolute Photographsの彼岸

      石田 瑞穂  伊藤雅浩の〈写真〉をめぐっては、こんなエピソードがある。   目利きとしても知られる高名な写真家が、東京蔵前の写真と現代美術のギャラリー〔空蓮房〕をおとずれたときのこと。オーナーで写真家の谷口昌良氏と写真家が歓談していると、壁に架けられた作品にふと話題がおよんだ。写真家が「じつにユニークで面白い。山肌のようにもみえる…どなたの作品ですか」と谷口氏に訊ねる。  谷口氏は作品が伊藤雅浩という若手写真家でプログラマによる「Recursive Call」シリーズの

      • レンカをめぐるノイズあるいは断章

        石田瑞穂  気がつくと、彼女は、淡い光のなか、木の床のうえで上体をゆうらりゆすらせ微動していた。観客ひとり一人の視線と、彼女の瞳を触れ合わせて。そうやって彼女は、虹彩だけで、踊りだしていた。  ここに書きつける言葉は、レンカという身体の表現、いや、彼女のからだと不器用に触れ合う音信となろう。  彼女の踊りとともに詩の朗読を試みるとき、リハーサルというものをしたことがない。彼女には譜面もコード進行も計画も練習もないから。彼女はからだに街のプラグをいれる。板橋の地下ギャラリ

        • 【9月のトーキョートップ】From Nowhere to Anywhere

          この作品はcrossing linesのトーキョーパートにて、2022年9月に掲載されました。作品の著作権はすべて野原かおり氏に属します。野原氏のアーティストシップに感謝いたします。 【プロフィール】 グラフィック・ウェブデザイナー、アーティスト。2016年故郷の長野に住まいを移し、東京と長野に拠点を持つ。2018年頃より意欲的にドローイングを始め、2022年2月に初の個展「どこからともなく どこへともなく」を山梨のGallery Traxにて行う。

          【8月のトーキョートップ】Lament For TSE

          この作品はcrossing linesのトーキョーパートにて、2022年8月に掲載されました。作品の著作権はすべてhakumen氏に属します。hakumen氏のアーティストシップに感謝いたします。

          【8月のトーキョートップ】Lament For TSE

          光の書き物—国立近代美術館・空蓮房コレクションレビュー

          二宮 豊  国立近代美術館の空蓮房コレクションに足を運んだのは、十二月とは思えないほど晴れやかな日のことだった。館内の一角に、ある意味で隔離された空間に、コレクションは飾られていた。ニューカラー派とその一派に影響を与えた写真家たちの作品。モノクロ作品も、カラー作品も、どれも等しくスポットライトを浴び、一際とくべつな光を集めているようだった。まったくの私見になるが、コレクションのなかから、記憶に残る作品をいくつか取り上げてみよう。  まずはロバート・アダムズによる、デンバー

          光の書き物—国立近代美術館・空蓮房コレクションレビュー

          秋の絵ー熊谷守一の小品

          石田 瑞穂 ぼくの隠れ棲む埼玉の見沼田園には、仙人のような書家がいる。 その人となりと作品についてはいつか書くけれど、画家で「仙人」といえば、熊谷守一ではないか。画家と呼ぶのもなんだか似合わなくて、ただ、自由に生きた人、自由人、と呼びかけるのがふさわしい気がする。 この、守一のちいさな秋の絵は、ぼくの父がたいせつにしている一点。晩秋にわが家の柿がつぎつぎと実り、色づくころに、父はこの絵を掛けて獨り楽しむ。ぼくもご相伴にあずかり、この小品を肴にして気分よく独酎したりする。

          秋の絵ー熊谷守一の小品

          I hear you

          横山大介 ⾃分⾃⾝の吃⾳に最初に気づいたのは、⼩学校4年⽣の国語の本読みの授業だった。 先⽣に当てられ、いざ読み進めようとすると、⾔葉に詰まってうまく読めない。⾔葉を出せない焦りと恥ずかしさでますます緊張し、体から汗があふれてきた。体全体を使って⾔葉を捻り出し、なんとか読み終えたあと、クラス全員から「うまく読めていなかった」「⾔葉が詰まっていた」と指摘されたことが強く記憶に残っている。 その後、ふとしたきっかけで写真と出会い、「他者」を撮りはじめた。⾃分の思うように⾔葉

          痛みと歓喜

          −ぱくきょんみ(詩)野原かおり(画)『あの夏の砂つぶが』(sibira 02)に寄せて 石田 瑞穂  これは、ぱくきょんみさんが翻訳した、アメリカの女性詩人ガートルード・スタインの詩集『地理と戯曲』の一行。スタインの英語原文は文法的にいつもどこかちぐはぐで、それを正確に訳そうとすればするほど、ちぐはぐな日本語になってゆくおもしろさがある。  ぱくさんの詩も、そんな翻訳にちかい。ぱくさんの言葉は韓国と日本、自己と他者、ジェンダー、現実と夢のはざまをゆれうごき往来している。

          痛みと歓喜

          【7月のトーキョートップ】no title

          この作品はcrossing linesのトーキョーパートにて、2022年7月に掲載されました。作品の著作権はすべて阿部紗友里氏に属します。阿部紗友里氏のアーティストシップに感謝いたします。 【プロフィール】 写真家  1987年 東京産まれ 横浜育ち 田舎は岩手。 写真スタジオで働いた後、あらゆる所へ旅をし、2022年 長野県茅野市に移住。砺波周平の元で働く。

          【7月のトーキョートップ】no title

          【6月のトーキョートップ】[pea]ce

          この作品はcrossing linesのトーキョーパートにて、2022年6月に掲載されました。作品の著作権はすべてヤリタミサコ氏に属します。ヤリタミサコ氏のアーティストシップに感謝いたします。 【プロフィール】 詩人。アメリカ現代詩、女性学、ビート詩、フルクサス、視覚詩、音声詩。2019年北海道新聞文学賞受賞。『ビートとアートとエトセトラ』『カミングズの詩を遊ぶ』『モダニスト ミナ・ロイの月世界案内』『ギンズバーグが教えてくれたこと』『月の背骨/向う見ず女のバラッド』

          【6月のトーキョートップ】[pea]ce

          【5月のトーキョートップ】A Foreigner in Asakusa

          この作品はcrossing linesのトーキョーパートにて、2022年5月に掲載されました。作品の著作権はすべて谷口昌良氏に属します。谷口昌良氏のアーティストシップに感謝いたします。 【プロフィール】 1960年東京生まれ。高校卒業後渡米。10年間在住し現代美術、写真、仏教を学ぶ。現在、浄土宗長応院住職、空蓮房ギャラリーディレクター、写真家。著に「写真少年」3部作、「空蓮房|仏教と写真」畠山直哉共著、「空を掴め」石田瑞穂共著がある。個展、グループ展多数。サンフランシスコ

          【5月のトーキョートップ】A Foreigner in Asakusa

          持ち仏

          石田 瑞穂 骨董市や古美術展をのぞくのが、むかしから好きだ。 柳宗悦の唱えた古玩や道具たちのもつ素直で健康な美に、コロナ禍に遭ってからもますます魅せられている。 市にゆくと、陶芸、雑貨、書画、古裂のほかに、かならず仏教美術が露店に列んでいる。 日本の古美術界では〝残欠〟と呼ばれ珍重されている品がある。瑕けた物、不完全な物に侘びた美をみいだす美的観点があり、それらはときに完器を超え値があがる。 秋草のような儚さですらりと無明指を天へのばす木彫千手観音飛鳥仏のいっぽんの

          乾山の春野

          石田 瑞穂 寒さの厳しかった冬もやっとおわり暖かくなりだす春宵は、心身もゆるゆるとほどけ、おおらかな雰囲気の器で呑みたくなる。そんな花月ともなると、時代箱からいそいそととりだす尾形乾山作の皿があるのだ。 色絵春野図角皿がそうで、ぼくがもっているのはその「壱」。もともとは五ないし十客一揃の向付であり、箱書きは一八代永楽善五郎。そのうち一客が流出し別葉したものとおもわれる。新型コロナ禍のため二年ぶりの開催となった東京美術倶楽部特別展に、金沢の店が出品したものを譲りうけた。

          乾山の春野

          うつろうかけらとしての写真−谷口昌良写真展「写真少年 1973–2011」

          石田 瑞穂 浅草寺のある東京浅草には、かつて、星多の写真館があった。演芸のロック座やキネマの浅草名画座とともに、浅草は写真の街だった。写真が趣味でお寺の住職だった祖父からアナログカメラを譲りうけた谷口昌良も、ごく自然に、そんな「写真少年」のひとりになった。 ビーチボーイに憧れたクールカットの浅草モダンボーイは、詰襟の学生服にカメラを肩からさげて、吉原芸者や江ノ島の海をファインダーにおさめる。写真帖の余白に、ボヲドレエルを気取った詩を書きつけて。 そんな「写真少年」に出逢

          うつろうかけらとしての写真−谷口昌良写真展「写真少年 1973–2011」

          野原かおりのドローイング

          石田 瑞穂 ある線が、到来する、とはどのような出来事なのか。 その線のうねりは孤独な力をかんじさせる。 この場合の〝孤独〟とは、線の発生が画家じしんのためどころか、だれのためでも、だれのものでもない、という力の在り様をさしている。星の発光が宛先のない手紙を書くように、線の創発は手作業の無意識そのものへと宛てられる。 いま、孤独、と書いたけれど、野原かおりの指先から滴りつづける線は、痩せ細った孤立ではない。野原さんの作品を〝絵画〟とだけ限定するわけにはゆかないし、そのけ

          野原かおりのドローイング