見出し画像

三堂めぐり(身辺雑記)

岩佐なを

 三十六年ほど勤めた大学図書館を定年退職して、ちょうど十年が経った。

 定年後は、詩や絵や版画などの創作活動が思い切り出来ると思っていたのだが、誤算だった。高齢の親の面倒をみたり、思いがけずに襲ってくる不都合から自分の心身を守り整えたりと、予定通りには過ごせていない。ひとはどんな状況(生活)でも一定量の不都合や不安は必ずついてまわるものなのだろう。老視もあって細かい銅版画の作業はままならない。工夫すれば可能なのだが、それにはまず気力を立て直さなければいけない。なんとかもう一踏ん張りするかな、と古稀に至って思い始めてはいる。

 実際、数点の銅版画や細密画を拵えてみると、完成までの速度は落ちたものの手は動いているし、創作中に良い方向に作業転換が図れるようにもなってきている。物を作るには、良い「思いつき」が意図せずに湧いてくる方が断然ありがたいものだ。そのためには蓄えなくてはならない。脳へのインプットである。展覧会や知り合いの個展をのぞいたり、新刊本の書店や古書店を巡って面白く感じるものを見つける必要がある。他者の活動(創作物)への興味が失せると、自らの創作意欲も衰えるものである、それは美術関係ばかりでなく詩の創作にもいえることだ。

 住まいが千代田区神田神保町なので、古書店街へは散歩がてらぷらぷら歩いて行かれる利点がある。週に数回この書店街を歩く。古書店は玉英堂書店、八木書店、三茶書房、呂古書房などを良く訪ねる。店頭にワゴンセールがある古書店も見逃せない、珍しい文庫本、長年探していた新書本などを見つけることもある。そうした本との縁を愉しんでいる。

 新刊本については、東京堂書店と三省堂書店がある。しかし昨年より三省堂書店は本店ビルの改築中で、仮店舗が小川町方面のビルに移転している。以前の本店から歩いて五分くらいなのだが、些か足が遠のいてしまった。遠いからではない、やはり売り場面積が以前よりずっと減ったために、書籍の総量が足りない。早く元の駿河台下に本店を大きく建て直して以前の書籍数を復活させてほしい。という訳で現在新刊本については東京堂書店を頼りにしている。文学、美術系の新刊は出版されると、もれることなく速やかに配架される。もちろん詩歌の本も充実している、ここは通好みの書店と言えるだろう。文庫・新書の「期間ベストテン」なども一味違うものが含まれていて興味深い。

 三省堂が駿河台下に本店を堂々と営業していた昨年までは、新刊は三省堂と東京堂を歩き回って探索していた。そして画材は明治時代創業の文房堂で探し求める。もっと安く売る店もあるのだが、銅版画インクや用紙など種類も豊富で、欲しいものがすぐ手に入るので便利だ。三省堂、東京堂、文房堂を巡覧することを自分で「三堂めぐり」と名付けて愉しんでいたものである。 (2024.01)

Tampopo by Nao Iwasa

プロフィール・岩佐なを  

1954年東京生まれ。詩と絵を創作。銅版画で蔵書票を多数制作。細密画や版画で挿画・装幀を手がける。竹川画廊、檜画廊、ギャラリーまぁる等で個展、グループ展を開催している。画集に『方寸の昼夜』『岩佐なを銅版画蔵書票集』。詩集に『霊岸』(第45回H氏賞)、『海町』(第24回富田砕花賞)など。詩と銅版画の業績に対して第54回藤村記念歴程賞。詩誌「生き事」「歴程」同人。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?