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冬の酒器−古備前の徳利

詩人 石田瑞穂

 「盃は唐津、徳利は備前」。小林秀雄も断言した骨董道におけるそのとりあわせは、もはや都市伝説とおもわれた。殊に桃山時代を上がる古備前徳利などという代物は、花器の風格をえた大徳利や仕舞い酒用の小徳利ならともかく、一合半から二合の酒が容る独酌に好適な品となると、現物を拝むことすら困難であった。 
 以前、骨董業者向きの催事で、備前焼蝟集と研究の大家である桂又三郎愛蔵の古備前徳利を目撃したことがあった。ガラスケースに収まったそれは、肌が鈍色に窯変してい、侘びた風情を醸している。
 戦々兢々と店主に値を尋ねると、
 「五百万円、ですな」
 耳打ちに、文字通り、絶句した。
 それからのぼくは、数多の古備前徳利巡礼者たちとおなじく仏諦の境地で骨董市をさまよい、晩酌のたびに骨董誌のページをながめて溜息を吐き、桃山がかなわぬなら、いっそ金重陶陽か素山、藤原啓、山本雄一でも、と近現代の備前焼の名匠展にも足繁くかよい、はては聖地備前や伊部にまで足をのばし、地元の骨董屋や備前焼専門店の棚のまえで呻吟するのだった。その旅中に出逢った、片上湾の風光と不老山の森にうずもれた登り窯跡の静かな佇まいがわすれられない。

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 そんな珍道中に、突然、終止符がうたれた。
 一昨年の正月。旧知の老骨董商から「初セリをするから遊びにいらっしゃい」と誘いがかかった。いまは店を子息に任せ「葬式代を捻出するために」得意先をまわる流しの商い人であった。東京上野の下谷神社そば、氏のマンションの茶室には、ぼくのほか二名の招客があった。その日の眼目は茶道具で、龍光院出という井戸茶碗や黒唐津彫文筒茶碗、仁清の半折、床の間には亭主秘蔵の良寛筆掛軸があった。桃山備前も織部好みの花入やよい緋欅の鶴首徳利がある。その谷間の半畳にちょこなんとのっていたのが、写真の古備前徳利であった。

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 視界にはいるなり、心拍があがり、勇み手にとる。
 池波正太郎似の亭主が白髪眉をやわらかくほころばせ、
「この徳利はねえ、私が三十年も愛用していた品ですよ。窯印はないけど胡麻もたっぷりのって好い肩衝でしょう。無論、桃山です。土もねっとりとした田土。この土質は近現代の焼物では再現できません。肩先の石ハゼも魅力ある景色です」
 徳利の口縁をつまんでかるくふりめぐらすと、底が重力にひっぱられる重みがある。たしかに桃山期の備前焼徳利のつくり。径は8.5㎝、高は11.5㎝。独酌にぴったりのサイズである。口縁は焼成のため肩先へとややたれ、おなじく器形も右肩上がりに傾いでいる。ぼくが憧憬していた、いわゆる林檎型の備前徳利だ。いままさに眼前の奇跡をみる想いで、ぼくは値も尋ねず、その場で、お譲りいただきたい旨を亭主に伝えた。ローンと節酒を覚悟で。家族よ、すまん、と。
 けれども、その覚悟ほど値は張らない。亭主曰く、
「いまの古備前相場が高値すぎるんですよ。御得意先の石田さんだし、骨董は本歌であれ、若いお客さんに安心しておつかいいただきたい。私もこの徳利でさんざ愉しませてもらったからね。お安くしますよ」。さらに亭主は「お正月だし、お年玉もあげましょう」と、値引きまでして心意気をみせてくださった。

 こうして、晴れて、ぼくの掌に嫁入りした古備前徳利。ある骨董の先輩が「希いつづければ出逢うものだよ」とはげましてくれたが、まさにそのとおり。ぼくはうれしさあまり雀躍しながら馴染みの小料理屋に徳利をもちこみ、痛快に呑んだ。
 写真の盃は、その晩も古備前徳利とあわせて呑んだ、古唐津山瀬窯盃。この盃については、鬼怒川金谷ホテルの誌面でも書いたので、ご笑覧いただきたい。

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https://kinugawakanaya.com/tabi/vol12/

 徳利をつかいはじめた当初は、長年、箱に仕舞われていたこともあり、器肌は乾きかさついていた。しかし、一年ほど、毎晩のようにつかってみると、肌は古備前のしっとりとした艶と潤いをとりもどしはじめた。酒染みもふえた。牡丹餅や赭にもうすこし緋が、と欲はでるものの、そのような格であれば端から手もでない。永年うけつがれ愛玩されてきた古備前徳利は、熟した柿の色に侘びて、酒徒好みの色合いにふたたび蘇った。
 そして不思議なことに、あれだけ執着していた骨董の酒器をもうこれ以上は欲しいとおもわなくなった。物欲が枯れた、のだ。
 さて、よく「古備前の徳利は酒を旨くする」といわれるが、事実だとおもう。酒を呑み干した古備前徳利に、翌朝、あらためて酒を注ぎ足しておく。晩には、ふだん呑む純米酒の味もすこし角がとれ、フルーティになる気がする。古備前の土の肌理が好もしい濾過作用をはたすのであろう。
 ちなみに、ぼくの知る古備前徳利の持ち主は、毎朝夕、独自にブレンドした酒樽に徳利を浸け育てようとしている。徳利のための酒風呂。嗤ってしまいそうになるが、骨董の数奇者にとっては、正気の愛着である。

写真:鈴村奈和

〈CROSSING LINES連載エッセイ 「眼のとまり木」 第14回〉


執筆者プロフィール

石田 瑞穂(いしだ みずほ)

詩人。国際ポエトリー/ポイエーシスサイト CROSSING LINES  プランナー

https://crossinglines.xyz
 
1999年に第37回現代詩手帖賞受賞。個人詩集に『片鱗篇』(思潮社・新しい詩人シリーズ)、『まどろみの島』(思潮社、第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(思潮社、第54回藤村記念歴程賞受賞)、『Asian Dream』(思潮社)、最新詩集に『流雪孤詩』(思潮社)。

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