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Absolute Photographsの彼岸

石田 瑞穂

 伊藤雅浩の〈写真〉をめぐっては、こんなエピソードがある。 

 目利きとしても知られる高名な写真家が、東京蔵前の写真と現代美術のギャラリー〔空蓮房〕をおとずれたときのこと。オーナーで写真家の谷口昌良氏と写真家が歓談していると、壁に架けられた作品にふと話題がおよんだ。写真家が「じつにユニークで面白い。山肌のようにもみえる…どなたの作品ですか」と谷口氏に訊ねる。

 谷口氏は作品が伊藤雅浩という若手写真家でプログラマによる「Recursive Call」シリーズの一作であること、さらにその作品が人間ではなく、伊藤の開発したアルゴリズムが自動生成する〈アルゴリズム・オブジェクト〉であることを解説した。それを聞いた写真家は言葉を失い、悄然として帰ったという…。

 2022年秋、東京の水道にあるギャラリー〔aaploit〕で個展「Absolute Photographs」をひらいた伊藤は、その画期的な写真論書『絶対写真論』での議論をふまえつつ、作品ノートにこんな言葉を書きつけている。

カメラで撮影して得られた写真はカメラを作ったエンジニアの作品ではないか、とヴィレム・フルッサーは指摘しました。カメラで写真を撮る。そうして立ち現れた写真作品は実はカメラに組み込まれたアルゴリズムによって「写ってしまった」に過ぎないのではないか。

 そうして伊藤の企図は「写真をアーティストの手に取り戻す」ことだという。21世紀は人類史上最も写像が氾濫する時代になった。世界中のだれもがスマホで写真や動画を撮影し毎秒のようにアップロードしダウンロードしている。デジタルカメラは撮影や画像を自動補正するだけではなく、緻密かつ膨大な画素数で、人間の肉眼ではみえないものさえ捕捉して写しだす。

 伊藤が問いかけ、具現化したアルゴリズム・オブジェクト、氏のいう〈アブソリュート・フォトグラフ〉(絶対写真)をみつめていたら、さまざまな考えが浮かんでは流れつづけた。写真はいったいだれが撮るのか。写真の主体と客体の差異はなにか。そのリアルはどこにあるのか。そもそも、写真、とはどんな存在なのか…。ふつふつと脳髄に湧く自問自答の泉には、打ち消しようもなく、伊藤の写真から感受する冷たい美と観ることの快楽がうちよせてくる。

 ぼくの机上におかれたiPad Airにも、Crossing Linesで特集中の伊藤雅浩の絶対写真が収納されている。

 元の被写体と画像は伺い知れないが、画面を拡大すると、光と色彩は半ば壊れかけたデータめく画像となり、画面右上から左下への斜線として引き伸ばされ、無数に重なり、風雨のように一定の偏向をしめしている。茶系と橙系の斜線は、枯れ草の乾燥して刺刺とした質感をみせ、仄かな青や白の寒色が暖色の景観にパースを仮構している。ぼくには、その〈写真〉が、宙空から降り注ぐ不思議な藁束が折り重なって編む街路か堂内のようにもみえている。

Masahiro Ito (c) 2023

 画面でみるのもいいが、伊藤雅浩の作品は実物(?)プリントで愉しむことをおすすめしたい。たとえば「宇宙から地球をシャッタースピード1秒で撮影したイメージ」だという「Velocity=Distance / Time」シリーズは、じつにセンシャル。色彩の階調もさることながら、アルゴリズムを走らせて実現した、異なる色価どうしの過剰な近接とその近傍は肉眼ではとらまえきれず、色の境界が凸凹と物質的に浮遊するようにみえる。眼球は器官のスピードオーバーを体感した。あたかも、色が光であることが視えて、物体として眼で触知できる、とでもいうように。そして、写真家によれば、それは〈時間〉の可視化された容(すがた)でもある。JPEGのデータ構造をあえて壊し原画像を撮影した「Human Error」(人災としても読める)シリーズは、(脳生理学によれば)人間の眼球と視覚が必然的に有する視る/視られる(世界/人間、主体/客体 etc)という有機的構造が瓦解し〈エラー〉の新たな身体へと眼が下降していくかのよう。

 いうまでもなくデジタル・テクノロジーは構造である。人間の観ること、描くこと、書くこと−眼と手の痕跡−も、脳生理学や理論物理学がそうであるように、構造による規定をうけている。マン・レイからニューカラーにいたる世代の写真は第一にテクノロジーであって、芸術の市民権をえられなかった。ジャクソン・ポロックのアクションペインティングはアナログ的な眼と手の痕跡を宿しつつ、偶然や確率の概念を観る者に感受させる。

 人の眼と手は古来、テクノロジーとそれを創りだし支持してきた知の構造に永らく規定されてきた…。

 おそらく、伊藤雅浩の絶対写真の冒険は、ここ二十年、いよいよ写真芸術に深く巣食いはじめたテクノクラート的構造にたいし、アーティストの生むダイアグラム(図表−紋章)を、作り手と観る者の眼と手の痕跡を奪還することにある。眼と手の力を呼び醒ますアルゴリズムを直接みえるようにすることで、写真と眼が触れ合う場を創りなおすこと。アルゴリズムという写真の新たな暗箱が、写真の内外のあらゆる力の折り目となり、内面から変化し、動揺しつづける場としての概念的紋章となること。このことにより、絶対写真における光と色彩は構造ではなく、純粋な力となり、その拮抗となる。

 そして、アルゴリズムとともに撮影イメージを創りだす伊藤は、写真の内在平面に、撮影者とも鑑賞者とも異なる、概念と人間性が奇妙に混淆した人物像をあたえるだろう。デジタルのかわりに、写真内に新たに生成したこの人物像は、世界と人間、自己と他者、眼球と脳という有機的構造、つまりは生きられた身体からの脱出口となりえる。

 だから、伊藤雅浩の絶対写真にアルゴリズムの効果だけを期待する者は、肩透かしを喰う。むしろ、伊藤が写真において真に問いかけるのはその無償性だから。

 21世紀を生きはじめたぼくらは、デジタル機器がより高性能化し、人間離れした精緻な美を写真が提供すればするほど、写真の美とその思想にたいして無感動になってゆく。そのイメージ不感症は、写真だけではなく、アナログアートや文学をも汚染している。

 伊藤雅浩の絶対写真はイメージフラクシーの世紀に抗い、ぼくらの眼と手がふたたび写真と触れ合う力と契機を、新たに想像し構築しようとしている。

〈CROSSING LINES連載エッセイ 「眼のとまり木」



〈執筆者プロフィール〉
石田瑞穂
1999年、第37回現代詩手帖賞受賞。個人詩集に、『片鱗篇』(2006年、思潮社・新しい詩人シリーズ)、『まどろみの島』(2012年、思潮社、第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(2015年、思潮社、第54回藤村記念歴程賞受賞)、『Asian Dream』(2019年、思潮社)がある。2014年、欧州5都市で東日本大震災を語る朗読ツアー「見えない波」に参加。以後、海外での作品発表や朗読もしている。2020年11月には東京・蔵前のギャラリー「空蓮房」で1ヶ月半にわたり、写真家谷口昌良との共同展「Cath the Emptiness」を新型コロナ禍の中で開催した。アートと詩のコラボレーションとして2020年に『空を掴め』(写真:谷口昌良、Yutaka Kikutake Gallery Book)、2021年に『sibira』(ドローイング:野原かおり、Stoopa. Ltd)を上梓。獨協大学外国語学部主催「LUNCH POEMS@DOKKYO」ディレクター。フェリス女学院大学、京都大学でも講義を担当。



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