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04-僕と金毘羅さん

 1994年頃、勤めていたCM制作会社を辞めて、家で、無職で失業保険をもらいながらゴロゴロしていた。そんな僕を心配して、あぶらだこというバンドのの長谷川さんという先輩が頻繁に電話をかけてきてくれた。長谷川さんも職が決まらずに悩んでいる時期があり、ある所に相談に行って解決したという。「紀川君も行ってみれば?」と場所を教えてもらった。

 そこは大星教会といって、東京の郊外(日野市)にある、神社のようなお寺のような教会のような所で、特定の宗教ではなく、創設者が独自に修行して開設した教団のようなものだということであった。しかし、まだまだ唯物主義者だった僕は、胡散臭く思い、行かなかった。

 そんなある日、以前一緒に仕事をしていたスタイリストの女性と電話で話している時、彼女もレギュラーの仕事がなくて不安だと言っていたので、その大星教会という所の話をしてみると、是非行ってみたいから連れて行ってくれと言われた。後日待ち合わせて僕も同行した。そこで彼女はあるレシピ(のようなもの)をもらい、「それを実行しながら、自分の家のお稲荷さんにお願いしなさい」と言われた。このレシピについては後述するが、彼女は「自分の家のお稲荷さん」というのが何のことだかわからなかったので、仙台の実家に電話して聞いてみると、彼女の実家の庭には、以前お稲荷さんが祀ってあったということがわかった。

 その後僕は、細々とではあるが、フリーの映像ディレクターとして仕事をしていた。そして最初の結婚もした。しかし、まだあまり自分の仕事を好きになれずにいた。そして環境を変えるために福岡に引っ越そうかとも思っていた。そこでついに、仕事の事、結婚した事、福岡に引っ越ししようかと思っていることなどについて相談するためにその大星教会に行った。

 その教会は相談に訪れる人に不思議なレシピをくれる。そのレシピは1人1人違っている。はっきり覚えてはいないのだが、長谷川さんのレシピは「大豆を68粒と南天の実を・・・・」というものだったし、スタイリストの女性はレシピの一部に「黄色い菊の花をそなえて枯れたら取り替える」というのがあった。僕がその教会で並んで自分の番を待っている時に何人か前にいた人は「家の裏手の神社にキュウリを2本・・・」と言われていた。

 どれもうろ覚えで申し訳ないが、自分のレシピだけははっきり覚えている。それは2つあった。「家から見て西南の方角にある神社に3日間通って、そこで毎日ろうそく2本に火を灯し、境内に酒を一合まいた後、ろうそくの火を消して賽銭箱に入れて帰る」というのと、「家の中の西南の方角に金比羅様のために水を一升そなえ、その中にお酒を一勺入れてそばに大根を一本置く。水と酒は毎日取り替え、大根はしなびてきたら取り替える。これを21日間続ける」というものだった。「お酒を一勺(しゃく)」というのがどういう分量だか知らなかったのだが、酒屋さんで聞いたら「盃一杯」のことだった。

 当時僕は江東区の豊洲に住んでいたのだが、地図で調べると家から西南の方向には埋立て地があるだけで、その先は東京湾だった。しかし、更に地図の先を見ると東京湾の先に品川区があり、そこに神社があった。そこで、バイクで当時の奥さんと2人乗りして、東京湾をグルッと回って3日間その神社に通い、言われた通りのことをした。同時に21日間のお供えもした。

 このレシピからしても、どうも僕は西南の方角と縁がありそうだというのがわかるが、やはり「今福岡に引っ越そうかどうしようか迷っているのですが」と尋ねると「福岡は東京から西南にあたるので引っ越したほうがいいです」と言われた。それで福岡に引っ越す決心がついた。

 長谷川さんとスタイリストの女性は、お供えの期間が終わったと同時に仕事に恵まれていた。長谷川さんはそれまで何回面接を受けても受からなかったのが、お供えの期間が終わったその日に採用の電話がかかってきたという。しかも、その新しい仕事を2週間でやめたのだが、すぐに次の仕事が決まったそうだ。「なんでやっと決まった仕事をそんなに簡単にやめたんですか?」と聞くと「だって、もう仕事が決まらない因縁はなくなったと思ったから」と長谷川さんは言った。さすがに僕の「見えない世界ナビゲーター」の1人であるだけに、この人の感覚は並の人とは少し違っていた。そして、スタイリストの女性も、お供えの期間が終わったと同時にどんどん仕事の依頼が来たと言っていた。

 しかし僕は、それから約13年経った2008年になっても、本当に自分のやりたい仕事には巡り会えていないと感じていた。とは言っても、この13年間の間、特に1995年から2001年までの約7年間は、僕は福岡でフリーの映像ディレクターをやっていたのだが、長谷川さんの真似をして、やりたくない仕事はどんどん断ったり、やってみて面白くなかった仕事は契約期間の途中でもやめさせてもらい、一時的にコンビニでバイトしたりしてしのいできたにもかかわらず、ディレクターの仕事が途切れたり、お金に困ったというような経験は一度もなかったので、それだけでも充分と言えるのかもしれない。

 そして更に2001年には、それまで足かけ17年間続けてきたディレクターの仕事を完全に一時休止したのだが、それ以後も、けして充分な収入を得られていたわけではないが、やはり生活に困るというほどのことはなかったのである。最初のうちは、これはきっと、僕が本当にやりたい仕事に出会えるまでの道すじを金比羅様が守ってくれているのだろうと思っていた。そして後に、見えない世界には、金毘羅様だけでなく、僕を応援してくれている存在がたくさんいるということを知るのである。

 東京で「処方箋」通りに、「金毘羅さん、よろしくお願いします」と、21日間唱え続けた僕は、その後、福岡に戻ってディレクターの仕事をすることになった。しかし福岡のテレビ局の人たちとも、うまく折り合いをつけることができず、僕は辞めて近所の蕎麦屋で出前のアルバイトをするようになった。

 そして、金毘羅さんのことなどすっかり忘れかけていた2006年頃、昔一緒に仕事をしていた人から依頼されて、愛媛県松山市のNHKで働くことになった。この仕事をしている時、四国八十八カ所について調べていて、金毘羅さんが、愛媛県の隣りの香川県にあるということを初めて知ったのである。

 松山で2年暮らしたが、どうしてもNHKになじめず、契約が終了した時点で更新はせず、福岡に帰ることになった。福岡に帰る前に、せっかくだからということで本場の讃岐うどんを食べに行くついでに金毘羅さんにもお参りすることにした。

 金毘羅さんは、延々と石段を昇って行くお宮である。後に心臓の手術を受けることになる僕であるが、この頃すでに心臓はかなり悪かったようで、ものすごく苦しかったのを覚えている。そして、やっとお宮に到達した時、なぜか船の写真や、船のモーターなどが奉納してあり、変わった神社だなと思ったのが印象に残っている。でもその時はただそれだけだった。後に金毘羅さんが海上交通の守り神であることを知る。

 愛媛から福岡に戻った僕は、なんとなく、本当になんとなく、ハローワークで偶然見つけた志賀島の定置網の漁師の仕事に応募して、漁船に乗ることになった。そして、一緒に船に乗っている漁師たちの会話に、「金毘羅さん」という言葉が時々出てくるのを耳にするのである。金毘羅さんは海上交通の守り神であり、漁師にとっては、金毘羅さんにお参りして、金毘羅さんの旗を船に掲げるというのがひとつのステータスだったのである。

 ああ、金毘羅さんか、こうして、何の縁もゆかりもなかった、漁師という仕事に就くことになったのも、もしかしたら金毘羅さんの導きなのかもしれないなと思った。漁師の仕事はあまりにも過酷で、長くは続けられなかった。その後、通販番組の制作をする会社に入ったが、環境になじめず一年半くらいで退職した。

 その後、ハローワークの紹介で工業系の職業訓練学校に通い、そこで無頼な友達ができて少し勇気づけられ、そして短い間、郵便配達の仕事をしたが、結局、また僕はディレクターの仕事に戻ることになった。

 そのディレクターの仕事中に骨折して入院し、入院中に心臓疾患が発覚して手術を受けることになり、約8ヶ月休養することになって、2014年の4月からやっと仕事に復帰したのだが、それが北九州の若松ボートでの、スカパーの番組の生中継の仕事であった。

 ボートレースに使われているエンジンは、今では珍しい2サイクルのエンジンで、燃料には混合ガソリンが使用されていた。朝、ピットに入ると、混合ガソリンの独特の匂いが漂っていて、ああ、2サイクルのエンジンの匂いだ、と思った。エンジン?そういえば、金毘羅さんのてっぺんのお宮には、なぜか船のエンジンが奉納してあったな・・・

 ここで全てがつながったのである。かつて(1994年頃)東京で「金毘羅さんにお願いしなさい」と言われ、福岡でディレクターに復帰した。そのディレクターの仕事を一時辞めて蕎麦屋の出前をしていたが、また愛媛のNHKでディレクターとして復帰した。そのあと漁師になったが、またディレクターの仕事に復帰。その仕事も辞めて郵便配達になったが、またディレクターの仕事に復帰。骨折と心臓の手術で休職したが、再度ディレクターに復帰。結局僕の仕事は「ディレクター」なんじゃないか?そして、これらの仕事の道筋を決めてくれているのは、もしかしたら金毘羅さんなんじゃないのか、と自然に思えたのである。

 ほら、モーターボートだよ、エンジンだよ、石段のてっぺんでエンジンを見たのを思い出せよ、と、しびれを切らした金毘羅さんが、わかりやすいヒントをくれたのかもしれないと思った。金毘羅さん、もしそうなら、鈍くて、経験から学ぶことの少ない、できの悪い僕を、いつまでも見守ってくださってありがとうございます。だからといって急に賢い子になることはきっとできませんが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 と決意を新たにした僕だったが、この競艇の仕事も1年で契約が終了して、その後保育園を開設し、その保育園も1年で閉園。そして熊本に転居してもうすぐ7年になる。きっと僕と金毘羅さんの話はまだ続いている。


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