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アストル・ピアソラの傑作「ラ・カモーラ」についての考察

今日はお店を20:00に閉めた後、メンバー全員で練習をした。

今日の練習内容は、新曲「ラ・カモーラⅢ」の楽譜配布と譜読みがメインとなった。

ラ・カモーラはピアソラの晩年の作品群で、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲとあり、わたしたちクレモナはⅠ、Ⅱを一年に一曲ずつ取り組んできて、そして、今年は終曲のⅢ。

そもそも、ラ・カモーラというのはイタリアの地下組織、マフィアみたいな人たちの呼称だという風に原曲のCDのブックレットには載っていたのだが、最近わたし(バンドマスターぴかりん)が信用している翻訳機「DeepL」によると、スペイン語で、「乱闘騒ぎ、喧嘩の種、争いごと」ということで、こちらの方がしっくりくるような気がして。マフィアってなんやねん。ゴッドファーザーかよ。

また邦題に「情熱的挑発の孤独」というのが書かれているのだが、日本語としてとりあえず意味不明。この邦題が良いって言っているレビューもあるんだけど、単語の雰囲気(タンゴじゃなくって!)だけでファッショナブルにキメただけではないかと、外国人が「侍」「忍者」みたいなTシャツを着ているときと同じような違和感を感じている。そういう意味不明な日本語造語みたいなのが、どんどんピアソラをわかりにくくしているとわたしは思っちゃうんですよね。本当に。そういう人たちがどんどんカッコつけてピアソラを演るから、ピアソラの価値が下がっていくんだよね。ほんと、やめてほしい。

ピアソラ自身イタリア系移民のⅢ世とはいえ、イタリアに住居を構えたことはおそらくないはず。(あるのかな?)だからなのか、そういった暴力団みたいな具体的なものがこの音楽からは感じられない。

「情熱」「挑発」「孤独」の中でも特別「孤独」というのはピアソラの音楽で、ずっと語られ続けている、表現され続けている要素だと思う。

たしかにこの「ラ・カモーラ」はピアソラの音楽の中でもとりわけ「孤独」だ。常に一人称で語られ続けるし、一人の目線で表現され続けている気がする。あなた、や、彼らはそこにはいない。主旋律の捉え方、ベースの進行、リズムまでもが、「We're」「He's」「You're」ではないのだ。一本一本の楽器がそれぞれ「I'm」でピアソラの言葉を語る。うーん、なんていうか、聖書で同じ事象がたくさんの目線で語られるのと逆というか、アンサンブルでピアソラの孤独を語るのだ。しかも一人称で。

だからこそこの「ラ・カモーラ」では個人のプレイはもちろん、アンサンブルの技術、が思いっきり求められる。みんなで「I'm」を語らないといけないのだ。

クレモナがこの5年で培ってきたのは、他でもない「アンサンブル」だ。この四人だからこそ、ピアソラと対峙できるとわたしは自負している。

ピアソラが最晩年(1988年)に打ち立てた、誰も上り詰めることのできない金字塔であるこの録音、そして楽譜を、わたしたちは、解体して新しく立て直す作業をする。サグラダファミリアよりもややこしい作業なのかもしれない。

今回のⅢのアレンジでは、(まだ3分の1しか上がっていないので今のところ)ホルンあやめちゃんがかなりハードワークになる。Ⅰ、Ⅱ、ときてこのⅢで、普通のホルン奏者だったら「ごっめんね、ゆるしてね」となりそうな容赦ない譜面を、彼女が突き詰めていくのを隣で体感できるのがとても楽しみだ。わたしの楽譜は今のところいつも通り(いや、なんといつもではありえない4小節の休みがある!)ベースラインだ。

2021年という、ピアソラ生誕100周年の年に、この作品群と改めて向き合うことがとても嬉しいし、頑張りたい、と思った練習となった。

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