コインランドリーで音楽に抱かれた日
コインランドリーまで向かう道の途中、一本の木の上で鳥が大騒ぎしながら喧嘩してた。
緩やかに廻る乾燥機の隣で、地響きを轟かせながら今にも服の繊維がちぎれるのではないかと不安に思う程に激しく脱水をする洗濯機。
その回転速度はあまりの速さで、肉眼ではまるで停止しているかのようにさえ見える。
夜の閑散とした時間帯。
室内のベンチに座り、音楽を聴きながら乾燥が終わるのを静かに待つこの時間がいつのまにか好きになった。
コインランドリーの良さを覚えてからというもの、天候が悪い日が続いたりタオルの臭いが気になり出したら迷わず近くのコインランドリーに行くのが日課となっていた。
幸いにも引越し先の家の近くにはいつもコインランドリーがあった。
家探しの際に条件に入れたことはないが、湿って重さを増した洗濯物を一人で抱えて歩いても負担にならない距離に必ずコインランドリーはあった。
乾燥が終わっても、他の客がいなくてあまりに居心地が良い時はそのまま数十分居座って時間を費やすこともある。
コインランドリーの話を誰かにすると、
最近のコインランドリーはカフェが併設されていたりしてすごいよねという聞き飽きたセリフが毎度吐き出される。
カフェ併設のコインランドリーが朝のニュース番組の特集にでも取り上げられたのかと思うくらいには、普段コインランドリーを利用しない友人たちは他人事のように口を揃えてカフェ併設の情報を伝えてくる。
正直カフェは要らないなと思った。
誰かが常駐したら居心地なんてものは皆無だからだ。
コインランドリーという施設はどこか情緒的で、そこに居るだけでまるで自分が映画の中の主人公にでもなったかのような気分にさせてくる。
ひんやりとした空虚さを纏ったあの空間が堪らなく好きだ。
この文化はどうか一生廃れないでほしい。
真っ暗な世界にポツンと青白い照明が街を照らす異空間。
暖かさとは真逆の世界を感じるのは何故なんだろう。不思議だ。
廻る洗濯物をぼんやり眺めながら、自分では絶対に辿り着くことのないであろう音楽を聴いていた。
人に勧められた娯楽は、勧めてきた相手に興味がなければどうでもよかったりする。
見るね、聴くね、やってみるねは
見ない、聴かない、やらないの常套句。
人より幅広く沢山の音楽を聴いてきたつもりでいたけど、そのせいか一つ一つの曲やアーティストに対する思い入れが浅く知識も乏しい。
あまり深堀りしないしルーツもそんなに辿らない。
良い or 良くない
それ以上でもそれ以下でもなく、「また聴きたい」か「もう聴かない」かのどちらかに過ぎない。
「音楽の聴き方にルールなんて無いんだよ。」
そう言って慰めようとしてきた友人は、ギターもベースもドラムも全て打ち込みで出来るから必要ないんだよねと浪漫のない台詞を平然と吐いたりする。
全くその通りだし否定も肯定もしないけど「楽器は打ち込みでいい」というその考え方を聞いたその瞬間から、消化不良の違和感がやたら胸の奥でつかえて胸焼けのような気持ち悪さだけが今でもずっと心に残留している。
ある人にとっては他で代えが効かないものであっても、
ある人にとっては効率的な別の何かであっさり代用できたりするものなんだ。
私は音楽の聴き方やルールなんて特に気にせずただただ自分の好きな音楽を聴くという、恐らく人間の大半が無意識に行うような楽しみ方で音楽に寄り添って生きてきた。
だからこそ自分と違う聴き方をして音楽にのめり込んで生きてきた人と関わる機会があるととても尊敬するし価値観に夢中にさせられる。
そんな人が全力で愛を語っている曲やアーティストにはどう抗っても興味が湧いてしまうのだから仕方ない。
気がついたらいつも再生している。
今日もそうやって辿り着いた音楽を聴きながらあと6分で終わると表示されている乾燥機をぼんやりとただ眺めていた。
一つのことに夢中になれる人っていうのは、どうしてこんなにも魅力的なのだろうか。
少なくとも私は打ち込みで音楽をつくろうとする人間よりも、楽器から響く一粒一粒の音を素敵だと恥ずかし気も無く語る人間が好きなんだと思う。
音楽も映画も本も芸術も、好きな人間との繋がりも。
他の何にも代替できない。
音楽はストリーミングじゃなくて盤を買いたいし、プラケースよりも温もりを感じる紙ジャケが大好きだし、歌詞カードの文字を一字一句追いかけながら聴いて味わった青春時代の高揚感を忘れる事はない。
映画はゲオや蔦屋で背帯が日焼けした1枚80円の旧作DVDをその日の気分で選んで借りてきて、自分の部屋で誰にも邪魔されず夜中に一人で観るのが一番わくわくした。
小説や漫画も未だに紙で買う。
一冊一冊読み終えた後に手に残る本の重さを堪らなく大切に思うし、大切な本であれば尚更いつ消え去るか分からないデータじゃなくて手元に残したいと思う。
格好つけて買ったApple Pencilで液晶画面に描くイラストよりも、描きやすさ抜群のお気に入りのペンと画材屋で買ってきたちょっと上質な紙に描く落書きが一番自分のタッチでいられるし、描いていて楽しさと気持ち良さを感じられる。
そうやって感覚を体と心に刻み込みながら生きてきたから、アナログ文化の一つ一つを失いたくないし、この感覚を大切に思う気持ちを忘れたくないと思う。
あんなに夢中になっていたあの頃の自分を、
あんなに大切にしていたあの頃の感情を、
思い出させてくれた相手だったんだと思う。多分。きっと。
私はこうやって陽の当たらぬ場所で誰かを思い続けるのが丁度良くて、思い出を勝手に美化しながら感傷に浸って生きていくのが性に合っているのかもしれない。
眩しい太陽に向かって猪突猛進になったせいで見事に溶かされ原型を失ってしまった。
再び固めても決して元の形には戻れないラクトアイスのように脆い関係だった。
あの素敵な感性を持った彼には一瞬すれ違っただけの名前も知らない他人にしか過ぎない。
私という存在。
乾燥機が止まってから約30分が経過していることに気がついた。
重い扉を開けると、幼い頃母親と一緒に洗濯物を畳んでいたあの頃を思い出す幸せな温度と匂いがそこにはあった。
いつの間にこんなに大人になったのだろうか。
人との出会いと別れを繰り返したり、
新しい知識や経験を詰め込んでいくせいで、少しずつ大切な何かを失っていくような感覚がある。
きっと失ったのと同じ分だけ新しい何かを得ているのかもしれないと思うと、今日まで生きてきた年月の重みを少しだけ感じることができた。
自分が大切に思うのならば無理に手放さなくていいんだと思う。
それが自分を形成する一部なのだとしたら、全ての瞬間に意味があって無駄な時間も無謀な感情もきっと存在しない。
耳に流れ込んでくる下品な歌詞に笑いながらそう思った。
店を出ると騒がしかった鳥の喧騒もすっかり止んでいて、
肌寒い気温の中で背中をじんわりと温めてくれた洗濯物にノスタルジーを感じた。
今日こそ絶対ソニックマニアのチケットを取るんだと、それだけを心に決めて家路を急いだ。
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