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SS『空を飛べ』

君は何も分かってない。

望は最後にそう言った。チクチクとした心をそっと怒りで包んで、泣きそうな自分を隠した彼女は、いつものお店でコーヒーを一杯買った。それはいつもより苦く感じたらしく、零して白いブラウスが汚れ舌打ちをしていた。

同時刻、碧は温泉に入っていた。日頃はシャワーで済ますから、熱いものに包まれること自体が新鮮であった。顔が赤くなり、緩く、何も考えていないようだった。サウナに入って、どこの誰とも分からない人に負けまいと汗を流す。それがキラキラと光ることが心地よくて、苦しみに耐えることは快楽に繋がるのだなと納得した。

望は一人で歩いて家まで帰る。向こうから来る通行人に染みがバレないようにカバンで隠しながら、いつもより早く足を回転させる。ヒールを履いてきたことに後悔している望は、風が冷たいことに気づいてはいない。カツカツカツと無意味に響く音に不愉快そうだ。家に着いたはいいが、鍵が見当たらない。やっと見つけた鍵は充電器のコードが絡まっていて機能を果たさない。心の余裕というものは直ぐに無くなるのだということを知った。

碧は水風呂に入り、クリアになった頭で考える。あの人にとって自分の存在は不要だったのだ。そのじつのところは、自分にとってもその人は必要ではなかったということを表す。どこまで妥協すべきかなんて知らない。せかせかと生きることを受け入れることは出来なかった。と、思考しているふうでいて、特に考えていない碧はこの銭湯はコーヒー牛乳があるだろうか否かの方が関心があった。既に体が水分を求めて、喉を鳴らしている。水風呂に意外なほど耐えれることを知った。

ある山に住む鶏が寝ぼけて大きく鳴いた。それを聞いた仲間の鶏も時をつくった。すると、飼い主である伊賀も目を覚まし、目はまだ開いていないのだけど歩き始めた。餌をやるためだった。

そのとき、タヌキは寝床から立ち上がり街に降りていく。でぽっとした体を揺らしながら、終電を逃した酔っ払いたちの横を歩く。どこに行けばいいか、迷いなく進む姿を見て猫はその後をつけていた。

その虎のような勇ましい足取りに感化された碧が家へと陽気に帰っていく。

隣人である赤い頭の女は、大好きな芸人が出ているバラエティを見て大きな声で笑っていた。片手にはチューハイ、片手にはポテチという次の日が休みであることを謳歌した姿となっている。

泥棒がひとり人の家を漁っている。その家主は夜勤で帰ってこない。金目のものをカバンに詰めて、家を出た時、碧が廊下を全力疾走していた。

ぶつかる。

避けきれなかった泥棒は、怒りや恐怖ではなく、驚きしか感じていなかった。

碧は笑い出した。酔っ払っているのだ。隣の部屋に住む人の事なんて知らないご時世だから、ただ「すみません」と言いつつ、「今日はなにかいい事ありましたか」と聞いた。泥棒が何も答えられずにいると「無かったんですかぁ」と語尾を伸ばして絡む。

「ないよ」

泥棒がそう答えると碧は「それはそれは、絶対今日はいい事ありますよ!早く寝ましょう!おやすみ」と帰っていく。

残された泥棒の足に猫が絡みついた。黒い猫が、靴を嗅いでバタンと倒れる。首輪はしていない。早く逃げなければと走り出した。

望はベッドに体を沈めて泣いていた。そのまま、朝を迎える。ただ、迎える。朝日が眩しくて、寝返りをうった時、部屋の外でなにかの音がする。少し騒がしい。

窓の外を開けて見ると、毛玉のようなフワフワの生き物がいた。望を見て、ウユーンと言った。

朝日は登りきった。また日本の一日が始まった。私が担当し観測すべき夜は何も起きなかった。ただ、日々を歩む人間を眺めるだけ、見守るだけだ。次の神に持ち場を任せ、家に帰る。今日も平和でよかった。

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