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アーティストの作品価値を決めるのは?

気の知れた友人と過ごす週末。
特に行く宛もなく、恵比寿から渋谷までを
ぶらぶらと散歩しながら歩いていた。

「なんか、今日はいらないモノを買おうよ」

そう2人で笑いながら話し、
道沿いにある店を
チラチラと覗きながら歩いていた。

「いらないモノ」とはつまり、
生活において必ずしも必要ではないモノ。
でも買うと少し幸せになれそうなもの。
不要なモノでは決してない。

学生の頃からあまり細かい予定は決めず
2人で会ったその日の天気や気温、
湿度に伴う気分に合わせて
やる事をその場で決める私達には
結構ぴったりのテーマ。

「心が動いたら買っちゃおう!」
そういうスタンスで出かけると、
結構いい買い物ができたりするものだ。

そうやって決まった今日のテーマは
梅雨の湿気が髪に絡まる日曜日に
何か面白いモノに出会えそうな
ワクワク観を演出し
私たちの心を躍らせた。

恵比寿駅を降り日比谷線沿いを歩き
車や人がごった返す大通りに
少し疲れた私達は
ハイセンスな建物ばかり立ち並ぶ
代官山駅沿いの小道に入った。

すると右手に、
不思議な空気を醸し出す店がひとつ。
ロシアのビンテージ雑貨を
数多く取扱うアンティークショップだった。

店内に入ると、
アンティークショップならではの
どこか懐かしくどこか異世界に来たような
独特の香りが漂っていた。
店内にところ狭しと陳列された商品は
陶器でできた動物の置物や
色褪せたぬいぐるみ、
紙の端がめくれた絵本など
どれも歴史を感じさせるモノたちばかり。

世の中には、
雑貨や洋服、靴などにおいて
「ビンテージ品」という存在に
強烈な情熱やこだわりを見せる人達がいる。
あまりそういった類に明るくない私は
その良さや価値といったものに
深く触れ、強く惹かれる事なく
24年間生きてきたようだ。

そんな私が店内を見て回っていると
どうやらこの店のイチオシは
マトリョーシカなんだと
圧倒的な品揃えの多さから気が付いた。
鮮やかな色で繊細に描かれた絵柄、
開けるたびにコロコロと表情を変えるだるま。
これらがこの店の例の
不思議な空気感を作っていたようだ。

私の想像するマトリョーシカといえば
大きなだるま型に赤のずきんを
被った女の子の絵柄が描かれており
それをパカっと開けると、
さらに小さな同じ絵柄のだるまが登場。
それを繰り返し最後には
親指の半分くらいの小さなだるまが
出てきて終わり、といったもの。

しかしここに置いてある
マトリョーシカ達は一味違った。

大きなものから小さなもの、
といった基本概念はもちろん想定通りなのだが
中を開けていくと
ひとつ前の絵柄とは全く違う
新しいだるまが出てきて、
同じ絵柄のものは一つとして現れない。
いわゆる大きいものがだんだん小さくなる
といった単調な連続性はそこには無く、
次はどんな絵柄なのかな?という
絵本をめくるような好奇心を掻き立てる。

個性的な絵柄のマトリョーシカ達に
ついつい見入っていると、
店主のおじさんが話しかけてきた。

「こういうのけっこう興味あるんですか?」
そう聞かれ、恥ずかしながら
ビンテージ品や雑貨に
特段の関心を持ち合わせていなかった私は
「あ、色が綺麗だなって思って」
そうとっさに答えていた。

すると店主は、ふむふむとアゴを触り
落ち着いたトーンでありつつも
少し興奮気味にこんな話をしてくれた。

「まず、多くの人が
マトリョーシカだと思ってるあれって
本来のマトリョーシカじゃないんですよ。
そもそもマトリョーシカというのは
ロシアに古くから伝わる知育玩具で、
大きなだるまと小さなだるまは
同じ顔して出てきちゃ意味ないんですよ。
だってそれじゃ、子供の探究心や
好奇心は掻き立てられないでしょ?
ほら、このマトリョーシカだって
大きなカブの中からお爺さんが出てきて
次はお婆さんが出てきて、
終盤には小さなネズミ、最後には
ネズミより小さなニンジンが出るのが
このマトリョーシカのエンディング。
これを並べれば物語になりますよね。
つまりはこの物語性こそ
真のマトリョーシカのあるべき姿なんですよ。」

「へぇ〜!
そうなんですね、知らなかったです!」
私たちはすっかりおじさんの話に
引き込まれていた。
すると続けてこんな話を…

「もう一つ、真のマトリョーシカたらしめる
要素があるんです。
それはね、絵柄が全て手書きであること。
100年以上前のロシアでは
玩具職人達が本当にイキイキしていた。
だるまを開くたびに
新しい仕掛けで子供達を驚かそうと
時間をかけて丁寧に絵を描き色を入れていた。
しかし、1922年から1991年まで
ロシアは旧ソビエト連邦となり
共産主義国と変貌した国では、
玩具職人達の環境もガラッと一変したんです。
生産物や富を民主的に平等に分配するため
生産手段の全てが工業化され
均一的なものを生み出すことこそ
あの国の正義となった。
そんな世の中では、
個人が資産を所有することが禁止され
職人達がひとつひとつ手作業で
丁寧に描き上げたマトリョーシカは
次第に世の中に出回らなくなり、
代わりに機械が同じ絵柄を描くように。
世間一般に知られている
マトリョーシカがどれも同じ顔なのは
実はその歴史が秘密なんです。」

「じゃあ、このお店にあるマトリョーシカ達は
いつ描かれたものなんですか?
すごく綺麗な状態のものも
けっこうあると思うんですが!」

「中には100年以上前に
描かれた物もありますが、
多くは実際にロシアに行って
僕がアーティストから
買い付けてきた物ばかりですね」

「なるほど!ということは、
ソ連が解体した後は、
また元のように職人さん達が
自由にマトリョーシカを作れるように
戻ったってことなんですね!」

「いえ、それが100年前とは
少し事情が変わりましてね…
実は、プロの職人として作る人が
今はほぼいなくなってしまったんです。
やっぱり、プロである以上は
納期や制約が多くて
職人達は思うように描ききれない。
だからこれを本業にする人はもうおらず
みなさん趣味でこれらの作品を
何十日間もかけてゆっくり
丁寧に書き上げるんです。
ここまで繊細な絵柄や仕掛けを表現できるのは
アマチュアだからこそなんです」

「プロ」という肩書きに憧れる
「アマチュア」の私は、
世の中分からないものだなぁと思った。
アーティストの世界には、
玄人にはできない素人だからこそできる
自由な表現があるのだと。
プロが1週間で仕上げた作品よりも
アマチュアが1年かけて仕上げた作品の方が
価値を見出されたりする世界。

「僕がこれらの作品たちを買い付ける時に
価値をつける基準は、
どれだけの時間をかけて丁寧に
この作品がこの世に生まれてきたのか。
僕は時間に価値を見出して買っています」

何気なく立ち寄ったアンティークショップで
また興味深い価値観を知ってしまった週末。
自分はこれから、
どのくらいの時間をかけて
どんな表現の作品を生み出していくのか。
そしてそれがどんな読み手に
価値を感じてもらえるのか。
ワクワクして、
また今日も文を書く手が止まらない。

ちなみに今回の散歩のテーマ
「いらないモノを買う」に基づいて
友人は例のアンティークショップで
一目惚れしたピアスを購入。
私は数万するマトリョーシカには
結局手を出せず、他の店でふと見つけた
懐かしいシルバニアファミリーの
パンダの赤ちゃんの人形を購入。

不思議で素敵な出会いができた
12,612歩の幸せな長散歩になった。

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