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「既読」なんか無くなってしまえ。

「既読」なんか無くなってしまえ。


 SNSを利用しているうえで、この「既読」という機能がとても厄介であることだと気づいた。
 今のSNSに既読を無くす設定はない。それは、東日本大震災の影響があったからだ。安否確認の為に、この「既読」機能が大いに役に立つのだ。
 だけど、僕は根本からこの「既読」を消してしまいたい。たしかに、災害時は「既読」があるかどうかで、心の持ちようが全然違う。


 この「既読」というものが、コミュニケーションを大きく変えてしまったと思う。

 2か月前のこと。沖縄にいる知り合いの美容師が、期間限定で東京にサロンワークをする連絡が届いた。その期間内に予約のお願いの内容だった。僕はまだ先の日程もわからないし、その当時は髪をかなり短くしてもらっていたので、2か月でどれくらい伸びるかも想定していなかった。しばらく様子を見ることにしようと思い、連絡を後にした。


 しかし、先日。催促の連絡がきた。返信をするのを全く忘れていた僕は、謝罪と日程調整をすることを伝えた。すると、


「返信がないから、嫌われたかと思った」という返事がかえってきた。


 もちろん、悪気はなかったけど、ちょっとだけ罪悪感が残ってしまった。返事をしなかった僕も悪いが、「既読スルー」したことによって、相手に不安感を与えてしまった。

 特に恋愛においての「既読」はホントになくして欲しい。これがあるか、ないかで、相手が自分のことをどう思っているかのひとつの判断基準になってしまう。人によって様々な感じ方はあるが、僕は思い込みの罠にハマってしまうことがしょっちゅうだ。

 今、人生でとても好きな人がいて、その人に猛アタック中だ。なんとか食事に誘うことができて、デートを約束できたのだが、台風という不可抗力が起きて延期になった。その後、スケジュール調整を試みたが、なかなか返事は返っては来ない。「既読」はついているのだ。


 「なにか、マズイことでも言ったのだろうか」と、やりとりを見返したり、モテる友達にスクショしてアドバイスをもらったり、気が気でない。

「既読」がある信頼感。
「既読」がない不安感。
「既読スルー」という絶望感。

 現に「既読スルー」というのが引き金になって、いじめや、拉致事件に発展してしまった事件もある。
「既読」というものが思い込みを助長させて、コミュニケーションに歯切れを悪くさせる。


 SNSがない時代のコミュニケーションはどうだったのだろう?

 その時代のコミュニケーションの主流は電話と手紙だ。

 電話は簡単に、相手とのコミュニケーションが取れる。しかし、携帯電話がない時代においては家の電話が主流だったので、特に好きな子に電話するとなったら、彼女のお父さんがでたら、どうしよう、というスリルもあっただろう。そして手紙。文通が流行して、顔も分からない文字だけのやりとりには心が躍る。相手からの返事を待つという時間も含めて、その時代の人たちは楽しかっただろうなと思う。


 今、僕らはコミュニケーションに何を求めているのだろうか?


 SNSでの返信の早さだろうか。たしかに、早く返信がくれば嬉しいし、安心感や信頼感も生まれる。でも、今では感覚も忘れて、人とのコミュニケーションを難しくしようとしている。返信が遅ければ相手に苛立ったり、返信が早過ぎたら変な勘ぐりをされるかもしれない。すごくめんどくさい状態になりつつある。


 僕が思うにコミュニケーションは距離感が大事である。親しい人でもあっても、そうでもない人も、それぞれにあった距離感を意識すべきだ。SNSは距離が遠いひとでも気軽にできるし、心との距離も縮めることもできる。

しかし、距離感とは諸刃の剣のようなもので、近すぎれば壊れやすいし、遠すぎれば風化してしまうことだってある。そのバランスをうまくとっていくのが、いまの僕たちの課題ではないのだろうか。


「既読」機能は、なくすことができないけれど、せめて、これからのSNSは表示のオンオフ設定を実装して欲しいと思う。緊急時になれば、その間に既読表示をオンにすればいいのだから。

 そうすれば、少しだけ穏やかな人間関係を築くことができるのではないか。

#こんな社会だったらいいな

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