進化論と民藝
種の起源においては自然選択によって進化が起こることを述べている。
自然選択は、親から子への遺伝子の伝達に変異が起こることと、その発現の違いによって次世代の子の発生に違いが生じること。
これによって起こる進化すなわち、グレードアップではなく環境への適応ができた個体が結果として生き残り、種を残しているというものである。
こと民藝の理解においても、この進化論のセオリーがしっくりくると「民藝MINGEI_美は暮らしのなかにある」を観覧して感じた。
民藝は柳宗悦が説いた、暮らしのなかの美を系統だて、埋没しかけていた手工業に光をあてるために提唱されたものである。
暮らしのなかの日雑には、そのものの用途と共に、人の心を朗らかにし灯りをともす「うつくしさ」があると説く。
ここでいう「うつくしい」は美しいとも愛しいともどちらにも通ずると勝手に解釈している。
それまで市井のなかにまぎれ、美を感じるという概念がなかった下手物(げてもの)のなかにも、作り手、使い手が注ぎ込んだ美意識が発露しているという。
言葉を省き、あえて対照的に表現するのであれば、ハレのものとする美術・工芸品と、ケのものである民藝と認識することもできる。
衣食住、日常のなかで使われてこその民藝品の基本は、いかに利便的であり効率的であるかである。
何百、何千と手仕事によって生み出されたそれらは、実際に使われて必要な機能が足され、不必要な部分がそぎ落とされ、形状が変わることによって機能を洗練させてきた。
その機能美だけの追求であればproductsの域でストップし、民藝の概念としての昇華はなかっただろう。
作り手の慈しみ、遊び心、使う人への愛情がものへと宿り、その表現として限られた枠のなかでデザインが表現され、うつくしさがポッと灯る。
ここで忘れてはならないのは、機能の範疇からデザインが飛び出ないことだ。
その結果、使い手が愛着を覚え、大切に使い続ける、途中もし欠損が生じれば直して使い、もしかしたら自分なりの改良を加えるかもしれない。
決してモノとしてだけの扱いではないのだ。
ここに種の起源の進化論との近似を見る。
優れた遺伝子が残るのではなく、その時々の地球環境に適応した遺伝子が結果的に残るというものが生物の進化論であるとすれば、民藝においては暮らしのなかで人の心の柔らかい部分に刺さることが環境への適応である。
機能だけ、またはデザインだけが、秀でているものは残らず淘汰される。
愛情、思いやり、愛着が美の形質に関わり、その形質から感情が逆流してくる、このことが人の暮らしという環境へ適応し続けるに不可欠なのではないか。
目覚めてすぐに向かった台所で朝日を浴びて柔らかな白を映す陶磁器の湯飲み、窓から差し込むこもれびを受けて座る椅子のまどろむ心地よさ、夜更けの細い光のなかで一針一針の運びを想像する刺し子。
鑑賞ではない、日常で大切に使われてこその民藝のうつくしさと進化である。
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