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風の記憶、時の雫

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note をはじめてみようと思う。 秋晴れの空を眺めていたら、風がやってきて、 そのときにふと思ったわけです。
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2021年2月の記事一覧

闇より出でる

きしむ雨戸が恐怖を連れてくる 台風のような宵に ひとりぼっちの不安が増幅される   太陽は今どの辺りを回っているのだ   あと何時間で顔を見せてくれるのだ 雨戸の向こうで 何が起きているのかわからない 何者かが襲ってきて 誰かが闘っているのか 不気味さだけが閉じた戸を抜けてくる   異形のものは異界へ戻れ   ここは人間の棲まう場所だぞ 不安は闇の中で膨れ上がる 恐怖は孤独の中で生まれる 願いだけでは恐怖は消せない 祈りだけでは不安は拭えない 絶望は闇の中からや

夢がないと嘆く人

夢がないと嘆く人は、 夢を叶えようと頑張っている人を 応援する夢を与えられている。 夢を叶えようとしている人が 夢を叶えた時、 応援していた夢も成就する。 一緒に喜び合えるし幸せも感じる。 そのことが、夢を叶えた人の喜びを 何倍にもすることができる。 それって、素敵じゃない?

どこかで

世界が少しずつ目覚めて 明るさを取り戻したころ もう半分の世界は ゆっくりと眠りについた どこかで おはようと声がすれば どこかで おやすみと声がする 面識はないが 地球上のどこかで 通じる声は結ばれている 争いのない世界を想像できる人なら 離れていても声は届く 言語が違えど どこまでも声は届く どこかで 愛していると囁けば どこかで 愛を受け入れる 大切なひとを 大切に思う気持ちは 地球上どこでも変わらない 太陽が毎日登るように

「さようなら」の後に

「さようなら」は 「またね」とか「ありがとう」がその後に 続くように、もともとは対になる言葉があった。 いつころかそれが略されて前の言葉だけになった。 そうなると「さようなら」という言葉が 変に重みを感じるようになってくるのかも しれない。それが別れの意味に。 でも「さようなら」って別れの言葉だと 考える必要もないのですよね。 特別なシチュエーションでもない限りは。 田舎に戻ったときに驚いたことがあって、 地元の小学生が下校しているときにすれ違うと、 みんな「さようなら

君と僕の間

君と僕との間に アクリル板が立っている すぐそばにいるのに 手をつなぐこともできない ふたりを遮る板は ふたりの間を遠ざける そんなことはない 遮る板は好きをつなげる板だ 君と僕の間を 好きがつないでいる 大切な思いを近づけるために 大切な君を守るために 未来は遠いものではない アクリル板のように 君が見えているが 手を触れることはできない 現在の僕と未来の間には 希望がつないでいる 進む時間を 遮ることはできない 未来を隔てているものが 希望なら透明な板になる 隔てて

抗う力

どうもモヤモヤしていけない。 この1年、コロナ禍で大きな変化が社会だけでなく 日々の生活にまでも押し寄せてきました。 その中で、あぶり出された古い価値観や思想が 誰もが目に見える形で映し出されたのです。 それが心の中のモヤモヤの主原因のような気がします。 面倒なことには巻き込まれたくないと、 スルーしてきた問題も、反論しても潰されるか、 黙殺されるだけだと逃げてきた人が大勢います。 組織の中にあっては特にその傾向が強いのでしょう。 警鐘を鳴らす人がいても概ね上手くいっている

悲しみの力

悲しみは自分を作っている感情の半分だと思えば、 自分を成長させてくれる力なのかもしれない。 誰も人は成長の過程で、いくつもの悲しみに出会う。 でも、その感情があるからこそ、 自分の弱い部分が少しずつ強くなっていく。 悲しみが憤りや妬みと違うのは、 他人に向かって吐き出せないこと。 それは自分が抱えて、 乗り越えていく感情だということ。 悲しみに出会うとつらい。息苦しくもなる。 その時に感じるのは自分は生きているということ。 まだ生きて。先に進むということ。 きっと心の内

撤回するとはどういうことか

失言した政治家はよく使うけど、 撤回しても取り消したわけではないから残る。 「撤回」すると、最初からなかったことになると 思っている人が多いけれど、そうじゃないんですよね。 なかったことにするのは「取り消す」ということ。 この二つは似ているけれど違います。 撤回は、撤回後にその発言で何か事が起きても 知りませんというだけ。 特に今の時代、言葉は残りますよね。 文書上は消せてもネット上に、 または記憶に残るものなのです。 だからこそ、政治家のような上に立つ立場の人は、 それこ

諦めること

若い頃は諦めることは逃げることだ と思うこともありました。 だからこそ、 そんな自分に抵抗していたのだと思います。 年を重ねてくれば、諦めるということは 逃げるとは違う超えることでもあるのかと。 ある意味、それが悟りの扉なのかもしれません。 あくまで扉であって境地ではなく。 昔は、人間60歳を超えると再び神の領域に入る といわれていたそうです。 だからそのくらいの歳になれば悟りの一つや二つは 身につけていて当たり前だったのでしょう。 人生100年時代の今はもっと先の話か

天を向く梅、地を向く桜

まだちいさい蕾の桜がたずねた。 「梅の花さん、どうして空を見上げて咲いているの?」 「ぼくは空から春を感じるんだ。」 春告げ花の梅の花はこたえた。 蕾の桜は、まだ冷たさが残る風の中で 空を見上げる梅の姿がまぶしく映った。 今度は、梅の花が問うた。 「桜さん、君はいつも下を向いて咲くのはなぜだい?」 「わたしは、咲いた姿を見てくれる人たちに  笑顔を見せたいの。」 まだちいさい蕾のままの桜はこたえた。 少しはにかんでほおをあかくした桜の花を想像して 梅の花は素敵だと思った。

生きた言葉

話す場で生きていられるのは幸せだ それも人を育てる場なら殊更に 人と人の間には言葉があってほしいし それが書き言葉でも話し言葉でも 話せなくなると人は退化するのかもしれない 思考的にも感情的にも やはり生きた言葉が人には介在してほしい それが自身と関係性をより良き存在にする

淡雪の朝

雪です。 朝起きたら雪が降っていました。 昨夜は冬の嵐で、雨戸を閉めて寝たのです。 未明には風はやわらかになり、 落ち着いたと思っていたのですが、 雪がやわらかな風に乗り、 舞っているとは思いませんでした。 淡雪。 まだ2月とはいえ、 ここのところの日差しは春のそれで、 日向で昼寝をする猫を うらやましく見ていました。 こうした早春の思いがけない雪は 「淡雪」といいます。 湿気を含んでいるので、雪と雪がくっつきやすく まるで雪が育つように見えます。 その様から「牡丹雪」と

夢をつかむ者

非現実的、妄想家、能天気、夢追い人、 それも救いようのないほど…。 もうね、なんというか大馬鹿者ですよ、 こういう人は。 でもね、応援したくなる。嫌いになれない。 いやどちらかというと好きです、こういう人。 本人はいたって真面目も真面目、大真面目。 しかも努力も半端ない。技術も磨く。 純粋過ぎるほど夢には真剣なのだ。 夢が叶うこと、それはとにかく信じること。 それに向かって正しく努力し続けること。 そして、それを支えてくれる人、 応援してくれる人がいること。 いつまで経

野心と志

野心は人を蹴落としてでも己の欲を実現したいこと。 一方、志は相手を思いやる気持ちや厚意を持ちながら 心に抱いていることを実現しようとする。 そう考えると、 若い人は特に志を持って未来に進んで欲しい。 高齢になっても 野心だけで居座り突き進むのは見苦しいし、 明るい未来を拓く妨げになる。 かつては野心が国をつくったこともあった。 しかし、野心だけでつくった国は野心によって滅びた。 だが、志でつくる世は人を育てる。 人が育った世は、さらに人をつくる。 カタチを時代に合わせて、