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まれびとたちが世界を変える

Xでは引き続き、文化祭編が進行中です。
(はじめてこの記事に辿り着いた方は固定している記事をまずはお読みください)

山梨の高校を舞台に主人公の望月響という女の子と仲間たちとの会話で物語が進行します。

まだ物語の序盤なので大きなストーリー展開はありませんが徐々に響たちの住む町のバックグランド、響のまわりにどのような友達がいるのかなどが明らかになってきています。

現在、登場するキャラクターたちはサブの主人公としてこの後の物語進行の中で大きな役割を担っていきます。

会話のポストの前後では色々な本や小説や映画やアニメの紹介をしたりわたしが読んだ本の中から関連性のあるトピックなどを紹介しています。

Xはポスト(投稿)を間引いていくので、正直、物語の展開を追いかけるにはあまり向いておらず、さらに、間にリポストなどが混ざってくるのでとても読みづらいのですが、よろしければお気軽にフォローしてみてください。
(Xのリスト機能を使って読んでいただくのが一番いいのかな?)

Xの方で山口昌男さんの『文化と両義性』や『トリックスター論』について紹介したので、今日はもう少し話をしたいと思います。

わたしは哲学や神話学、文化人類学などの本を読むのが大好きなのですがこの『文化と両義性』などを読んだこともそのきっかけのひとつになっているかもしれません。

こどもの頃から世界の神話や日本の神話などがとても好きで、どうして地域も人種も異なっているのに似たような物語が存在したり似たような神様がいたりするのだろうと考えたり、逆に、同じ「美の神様」でも世界の神様と日本の神様では役割や象徴しているものが異なっていたりして面白いなーと感じていました。

ヒットするアニメやゲームはどこかに神話的要素を持っていて、こどもの頃からそういったものに触れていると基本知識としてしらずしらずの間に神話の構造や登場人物(人でなく神様ですが)が頭に入っていたりします。
(ドワーフやエルフなんて一冊も本読まなくても明確に知っていたりしますよね)

そういった自分が触れたコンテンツやサブカルチャーについてはコンテンツを楽しんでいる間はただ楽しんでいるだけですが、その背景に隠された理論について明確に説明してくれる文章を読むと思わず「ふむふむ なるほどー」とまるで長年思い悩んでいた悩みが一瞬で解決した感覚や、ミステリー小説のトリックがわかったときのような爽快感を感じます。

山口昌男さんの『文化と両義性』やユング心理学などはわたしにとってそういった本の一種ですね。

難解な学術書に見えると思いますが、わたしにとっては自分の身近なサブカルチャーの謎解き本みたいな感覚です。

『ドラえもん』の登場人物の設計を行う際に藤子不二雄先生が心理学か神話学の先生に相談したみたいな話があったような気がします。(申し訳ありません。ちょっと調べたたのですがすぐに出てこないのでまたわかったら追記します。)

あの『ドラえもん』にすら神話のロジックが入っているのかとサプライズを感じたのと同時に、逆にだからこそ国民的ヒットを生み出すことになったのかと関心した覚えがあります。

ちなみに、

ドラえもん=全能の神 のび太くん=無力な人間 しずかちゃん=美の神 ジャイアン=力の神 スネ夫=富の神 出来杉君=知性の神 みたいな感じだったと思います。
(※藤子不二雄先生の初期の短編はめちゃくちゃ面白いです。)

無能で無力な人間が全能・万能の神の力を借りて、美、力、富、知性の神から力を得て成長していくみたいなことですね。

スターウォーズもドラゴンボールもそうですが、無力な若者が自分より力を持っている存在に力を借りて成長していく成長譚は多くの神話に共通して存在していますよね。

ドラえもん=ヨーダ=亀仙人という構図です。

『文化と両義性』でわたしが学んだのは「コスモス(秩序)とカオス(無秩序)」や「中心と周縁」という概念です。

かならず文化にはコスモスとカオスの対立構造があり、また国会や文明には中心と周縁があり、その境界線に存在する『トリックスター』という役割が存在する。

異人・マージナルマン・かぶき者・まれびと・ノマド・サンカ

中学生や高校生のときに学校という集団になじめなかったわたしはこういったアンビギュアスでアンビバレントな存在にひそかに共感しあこがれをもったのかもしれません。

ドラゴンクエストには「遊び人」という職業が存在して、どうして「遊び人」が職業なのか不思議だったのですが、このトリックスター論などを読むと、遊び人にも、神話学としては勇者や戦士、魔法使い、賢者と同じような重要な役割があることがわかります。

会社や学校、家族などの組織でも、一見フラフラして仕事も勉強もたいしてせずに失敗ばかりして迷惑をかけているような方が1人はいたりしますが、意外にそういう人が組織のバランスを取っていたりします。

組織論でそこまで分析されているのかどうかはわたしは知りませんが女王アリと兵隊アリの話と同様で、そういった存在を無理に排除しようとすると組織の崩壊や弱体化につながったりすると思います。

世の中の古い秩序を破壊して新たな秩序を作っていくには「遊び人」の「遊び」が必要です。

真面目にやってもダメで「遊び」が文明を変えていくというのはとてもおもしろい視点だと思います。大企業や大きな組織になるとイノベーションを起こすのがとても難しくなりますが、これは統率のためにこの「遊び」の要素を排除しようとするからだと思います。

起業家に向いているのは「わかもの、ばかもの、よそもの」という言葉がありますが、「遊び」というのもいれたほうがよいですね。

インターネットが爆発的に広がったのも「遊び」という要素を取り入れたからだと思います。

大学教授が論文のやり取りを行うための手段のままだったら今のような広がりは見せていませんね。

「インターネットを遊ぶ人」と「インターネットで遊ぶ人」の存在を許し、それまで繋がることができなかった世界中のトリックスターたちをつなげることができたからこそ、新たなコミュニティができて、古い秩序を破壊する新たな世界の誕生につながった、そんなイメージがあります。

文化祭というのは「ばかもの、わかもの」が「遊ぶ」場なのでそこからなにかが誕生する可能性がおおいにあります。物語の進行上、響たちの高校一年生の文化祭はそこまで大きなできごとは起きませんが一年後の文化祭のシーンが楽しみですね。

「遊び」についてもロジェ・カイヨワの理論などまた面白い話がたくさんあるのですが長くなってしまうのでまた次の機会に。

きょうはここまで

みなさまと一緒にワクワクしながら、この不思議な旅を楽しんでいきたいと思います。


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