病気という概念はない―パート2

以前、ヒポクラテスの名言を借り、病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない、という記事を書いた。

そしてその中で、
私は”症状を診断された方がそこから抜け出す”クライアントには、しばしばセラピストとしての見立てを伝える。
見立て、というのも難しい概念だが、私の場合はもちろんのこと「表面的な病気の名前」ではない。だから、「病気の概念」自体はそもそも存在しない、その場のルールによっていかようにでも変わるのだから。
その人が持っているプログラムの原理原則、このメカニズムがあるからこのメカニズムをこうこうこういう形で解く方法をとるこのセラピー方針で行こう、ということである。更にはこれまたもちろん、セラピストとしての”見立て”はこうだが、こんな複雑なことは説明してもわかりようがないのでクライアントさんには現段階ではこう伝えておこう、というような、「いわば」「例えていうなら」というような形で表面上、もし並べて一見したとすると素人さんには全く別の見立てケースを説明していると見えるかもしれないような伝え方さえもしたりする。

そしてもちろん私はセラピストでありドクターではないので、どの道「社会的診断」はしない。と、いうこともクライアントさんには伝えた上で。クライアントさんが自身のセラピーとどう向き合っていくか、どう立ち向かっていくか、つまりは見立てを伝えること自体が既にセラピー、クライアントさんのセラピー効果のための開示だ。

そして、以前のこの記事では、クライアントさんにはこれを伝えた方がセラピー効果が高まる(本人が抜け出すことを選ぶ)場合と、逆効果になる(クライアントさんがその病名や症状名をアイデンティティとしてしがみついてしまう、そして場合によってはそのためにセラピストに見立てを開示するよう巧みにコントロールしようとするプログラムを持っている)場合がある、ということも書いた。

ヒポクラテスのこの言葉が何を意味しているのか、といううちの一面として、大事なのは、”例え他人からどのように診断判断されるような病態、症状であろうと、それはその人が持っている、という時点で、既に唯一無二のものであり、人の症状は千差万別、無数のパターンがある。”ことと、
”それを持っている本人としては、それが例え他人から何と言われようと、今の自分の状態をどうしたいか、というところにしか問題はない。今の自分がそのままでいたい、そしてその苦しみに名前をつけて後生大事に抱え込んで仲良くしたいのであればあらゆる医師を回って診断名をつけてもらえばいいかもしれないが、もし自分が今の状態から抜け出したい、方が目的なのならば、他人がそれにどんな名称をつけていようが(医師がそれらの名称をつけているのは、あくまで医師同士の情報伝達やケーススタディが円滑になるためだ)、関係はない。医師やセラピストのサポートを使って、自分が目指す自分になってゆく、自分が目指す自分のゴールを達成することだけなのだから。医師やセラピスト側は確かに彼らは彼らで勝手にクライアントの唯一無二の状態やそこからの転換方針などサポート法を分析するためにそれらの名前を頭の中で使ってはいるが、学問的な知識や分析法を持ちあわせないクライアント本人には、そんなものは必要ない。”というところだ。

まあ、他に、セラピスト(ドクター)側とクライアント側とが「共通認識」を持ちやすくするために、「××は〇〇障害の症状だと思いますが、△△は◇◇疾患の症状でしょうね」などという言葉の使い方をする時はあるが。
しかし、それも実は、”クライアントの今の段階”に合わせて、クライアントが今はこう理解しておいた方が良い、というものから伝えている場合もある。

この辺りを本当に突き詰めていってしまうと、全ては結局繋がっているのだ。
特に西洋医学の身体の医師や精神医学(DSM)を教科書とした診断医は書いてある文章と表面に見える言動行動を当て嵌まらせていくだけなのだが、潜在意識レベルから心身の状態を診ると、これはどうしても、その下に幾重にもいろいろなプログラム、メカニズムが重なっている。
そして、はっきり言ってしまえば、こちらを診ないと、本当にクライアントが(特に自分で自分の人生として)その状態を脱することができるためのセラピー方針を見極め立てることはできない。

もし表面的に出ているものだけ多少取り除けることができたとしても、その下におおもとの病巣(敢えてわかりやすいためにこういう書き方をするが)があれば、表面的にはぱっと見違うようなものに見えても結局同じところから出して来る似たようなものが繰り返し表面にあらわれては本人、苦しむことになってしまうだけだ。

ちなみに私はこれを「落とし穴理論」と呼んでいる…というより、とある研究者仲間と会話していた時、いつの間にかこんな名前をつけてくださったのだった。(笑)
クライアントさんは大抵(ほぼ十割だと思うが)、心身の奥深いところに大きな落とし穴(本物の病巣ともいえる問題)を持っているのだが、もし病識を持ってセラピストやドクターの元を訪れる場合、これは落とし穴ではなく、それを隠すために人生の中でひたすら積み上げてきた、いわば泥や落ち葉や小枝で落とし穴を塞いでその上にたくさん積んで来たもの……そしてその中でも、その時の文化や社会的な流行りに見合った、医師やセラピストの気をひけそうな(要するに彼らが確かにこれこそ主症状だろう、と思ってしまうような)問題を主訴として持ってくる。当然ながらクライアントさん自身は気付いていない。

セラピスト側は、この時、もしその「落ち葉」をひとまず相手にするにしてもそれともどんな問題を相手にしていくにしても、この「落とし穴」を見抜いている必要はある。
(ちなみに、これは交流分析的な言い方をすれば落とし穴=人生脚本、ともある種言って良いかもしれない。なぜなら人生脚本を読み解けば落とし穴は同時に見つかるから)

……ちなみに、これは私個人の話だが、私は幼い頃から、今に至っても、いろいろな人の困りごとや問題を聞いたとき、私はそもそも相手の顕在意識の発する言葉よりも先に母語のように潜在意識の声と言葉が直に聞こえてきてしまっていたから、主訴(落ち葉)を聞いても実ははっきり言って何を言っているのか良くわからず、潜在意識の教えてくる底の落とし穴が視えてしまっていた。それゆえに、「え、それは(奥底にあるもの)がゆえにこうこうこうなって…表面としてはそう出てきているんだよね」という方向性からの方が先に見えてしまっていた。
もちろん、セラピストとしてやっている今では(顕在意識→顕在意識、潜在意識→顕在意識、潜在意識→潜在意識、顕在意識→潜在意識、の聞き分けと会話パターンを自分で訓練してきたので)、顕在意識ではクライアントさんが顕在意識で持ってくる主訴や話や反応を相手にしながら、相手の潜在意識の持ってくる真の問題を相手にすることができる。
そして更に人生脚本分析を深めていくにつれ、実はこれがクライアント本人どころでなく実はセラピストなど専門家であっても一連の専門的分析法を意識領域の方向性から踏んでいかないと読み解くには時間がかかるものなのか、ということを、実はその辺りから知っていった。
今では、私も潜在意識で(相手の潜在意識・顕在意識両方から)受け取る相手の心身の仕組みと、私の顕在意識から専門的学問を含め読み解いていくものと、区別している(とはいえ、内容的結果的にはあまり差異がないもので、寧ろお互いがお互いを裏付けるものなのだが)。

ちなみにこういうところでしかなかなか書けないかもしれないのでひとつ関係のない話だが。
交流分析というと、エゴグラムなどの印象から、「パターン(タイプ)分析」というイメージがついていることが多く、「パターンに当て嵌めないで欲しい」などと言われることがたまにある。のだが、交流分析というのは、実際のところどこまでも奥が深い。そして、本来の交流分析は、パターンではなく、いわば”例えばそのパターンを形作る”原理原則、材料を教えるものである。そして材料に気付くことができるようになるための方法である。
つまり、その原理原則を解ったとき、人生脚本分析と一言で言うがこれには無数のパターン(要するに全てが唯一無二で比較不可能)が生まれる。
交流分析をやっている人たちですら、例えばエゴグラムでこう出たらN型、W型、などとパターン化することを覚えて分析したつもりになってしまう人も多いようだが、交流分析は、それこそ”なぜこうなるのか”の原理原則の材料(潜在意識の中に在るもの)を見つけるための方法を説いているものである。
しかし、まあやはりクライアントさんであるとか素人さんに言語化して説明する時は、どうしてもわかりやすい言葉に表現法を変えることとなる。
だから、いわば例えば、セラピストの頭の中では、虹の青と紫との間にも無数に色があることを識別しているのだが、クライアントさんに説明する時は敢えて、「青」だと、言っているような話なのだ。


さて。話を戻すが、「”落とし穴”を持っているクライアントさん」の場合、セラピストがまずその落とし穴の存在、その落とし穴がどんな落とし穴であるのか、見極めておくことは必須事項である。

なぜなら、まずセラピー方針が決まらないから。

落ち葉を相手にするにしても、そのクライアントさんのプログラムによっては、落ち葉をセラピストが相手にしてしまうことによって例えば(これも敢えてわかりやすいパターン的な言い方をするが)”次の落ち葉をどんどん製造する”プログラムであったり、”落ち葉を相手にしていることによって落とし穴がどんどん深く大きくなっていく”プログラムであったりなど、する可能性があるからだ。それによって、本当に例えばの中でもごく一部だが、そうすることでいくらセラピーに通ってもなぜだか全くよくならない(他者にコントロールされている他人軸やら自分は何をやっても変わらないという方向性の強化やら、セラピー依存、自己の意志を成功させない目的の強化、などなど)という方向性へどんどん人生の駒を進め転がらせていったりすることがある。

しかしながら、落とし穴を相手にするために、落とし穴の存在をクライアントに伝えてはまずい場合もあるし、クライアントにそれを伝えようが伝えまいが、落とし穴に対してうまくセラピー効果を発揮させるために敢えていくつかの特定の落ち葉を相手にした方が良い場合もある。

また、更に言えば、私の理論は「落とし穴理論」と同時に、「落とし穴二重底理論」なのだ。
ここまで説明していると本日の記事ではあまりに複雑になるので省くが、これらのセラピー方針を、クライアントさんの心にインプットされたプログラムの発動で逆効果にさせてしまわないように進ませるためには、落とし穴を見極め、クライアントさんの唯一無二の個性(プログラム)に適応する必要がある。

現段階の日本では、セラピー自体が依存の対象となるのだと、気付いていないセラピストも多い。気付いてはいたとしても、それがどうしてどうやってセラピー依存になるのか、というところに気付いていない場合もどうやら多い。
…確かに、交流分析における人生脚本理論の深い部分までも共有できてでもいなければ、心理学系の授業でも説明できるものでもないと思う。同じく人生脚本理論がかなり深く絡んでくる転移・逆転移の理解などに関してもそうだが…。
少し表面的には逆説的な言い方にもなり得るかもしれないが、(フロイトが指摘しているところだが)クライアントが”今”必要だから握りしめている症状を、潜在意識を扱う心理療法で取り除こうとしてしまい、逆にクライアントさんの防衛(プログラム)を強化させてしまい悪化させてしまう場合もある。フロイトは、そのために催眠を自分の治療に採用しなかったともいわれる(コカインで歯をやられていたために誘導が必要な技法に向いていなかったとも言われるが…まあ、人の事情はいろいろ重なるものであるから、いろいろあるのだろう。)
しかしフロイトの時点で、セラピーの依存性の懸念は既にあったことは確かなようである。

この記事の最初で例えとして出した、クライアントさんの”状態”を本人に見立てとして伝えることが必要かどうかだけをとってもそうだ。

クライアントさんが自分の今の状態から更に抜け出す動機付け、助けとなり、更にそのエネルギーの方向性を流れに乗せる手助けとなるなら、伝える方法もある。が、”現段階の””この”クライアントさんに、どのような形で伝えるか。これは、例えばセラピスト同士でクライアントさんのケースを持ち出して情報共有するなどという場合に使う見立て方、名称とは異なる。

だが、クライアントさんは自分の状態や見立てを知りたがっているが、知らせてしまうと、(クライアントさんにこの自覚もないのだが)その”当て嵌めてもらえた症状名、状態の名称”を、自分のえらい肩書きのようにアイデンティティのひとつとして抱え込み始めてしまい、抜け出すことを目指しているように表面的には見せながらも、実際のところこの中に隠れてしまう場合もある。
ただ…こういうクライアントの場合は、ただでさえ元々動機付けが実は弱い場合が多いので(表面の言動とは裏腹の場合もある)、それでもクライアントさんが「症状の緩和、症状からの脱却」を目標と”したい”と言うならば、敢えて一度この状態にしてから、本当にそこから脱却したくなるような動機付けのアプローチを(敢えてここを土台にして)始める場合もある。
(でないと、元々動機付けが弱いクライアントさんの場合や完全に他者に預けるプログラムのクライアントさんの場合、”自分の状態を知らないまま、見立てを言われないまま”だとどの道自分に対して放任主義になってしまい、ならどうしてセラピーに来ているの、来たいの?という、逆に最初からセラピー依存まっしぐらになってしまう。この場合のようにどのみち本人に不利なプログラムが発動してしまうならば、敢えてこうして一度パターンを崩す方法も一手としてはあると思っている)
ただ…この場合、本当に下手をすると、クライアントさんの”自分の位置づけを知ることができたがゆえにそれを盾にする”プログラムを巧妙に発動させてしまう場合もあるため、この後のアプローチは非常に繊細なもの(そしてクライアントさんの落とし穴の詳細確実な読み)が必要になってくる。

ここでクライアントさんの落とし穴を見誤っていたり潜在意識が既にくれているクライアントさんのプログラム情報の詳細部分を読みそこなっていたりすると、悲惨なことになる…。

見立てやセラピー方針を共有したあと、事あるごとに、クライアントさんが外側の情報を何だかんだ得たり自分を比較したりあちこちに(表面的情報で)自分を当て嵌めたりして、「自分は〇〇じゃなくて△△じゃないか?」などと、言ってくる場合がある。
一見、セラピーやセラピストに対する抵抗という見方もできるが、私はエリクソンの言葉が好きである。「抵抗するクライアントはいない。」
ただ単に、クライアントさんの更に落とし穴に近い部分のプログラムが発動しているだけである。
ちなみに、これが出た時点で「”見立て”をアイデンティティにしてしがみついていたのではなかったのか?」とも思われかねないかもしれないが、”見立て”をアイデンティティにしている。そのプログラムもある上だからこそ発動している。
…ちなむならば、顕在意識としての表現方法としては「私の病名は〇〇じゃなくて△△じゃないの?」というような系統かもしれないが、実は具体的内容としては全くそんなことは本人問題としていない。そこでセラピストがつい顕在意識の言葉に乗り同じ土俵でその内容を相手にしてしまえば、相手の心理的罠に嵌り相手のプログラムを強化の手伝いをしてしまうだけである。セラピストとしてはセラピーの手助けどころか、真逆のことをしてしまう。

クライアントさんのプログラムを見極めていれば、とあるタイミングを見計らってこう出てくることは予測できる。
転移・逆転移現象と同じで、こういう時こそが、そのプログラムをクライアント本人が自分で除去していこうという方向性に行くための種を、仕込む大きな機会である。


セラピーの経緯で、別の”病気”を呈示してくる場合もある。
”病気の概念”(潜在的認識)でクライアントさんが動いているがゆえである。
例えば、表現してみるなら身体で転移現象を起こさせるような形で、身体症状が見事にセラピーの日に発症してセラピーセッションをキャンセルするような場合なども。(これを言うと深くなってしまうし一見不思議な話に見えてしまうが、これが事故や外側の事件など、本人にとっては不可抗力でやむを得ないとしか感じられない事態の場合もある)
心身は繋がっていて常に全体で調整を行っているので、突発的な”病気”などという概念はない。
あくまで人生のタイムラインの中での流れでの「状態」の経緯である。

そして、クライアントのプログラム(唯一無二の心身の状態としくみ)をセラピストとして読んでいれば、これらも実は、ほぼ予測をしている。

セラピストは…という言い方をしてはやはりいけないのかもしれない、
どんなに少なくとも私は、クライアントさんの中の”病気の概念”を相手にしているのではなく、クライアントさんの人生丸ごとと関わり、クライアントさんそのもの、人生を視て(相手にして)いるのだから。

ある種大きく別の角度から言ってみると、「落とし穴」を持っているクライアントさんは、自分自身(落とし穴も含めて)全体を見られ丸ごと受け容れられ相手にしてもらうことを知らない(慣れていない)から、見られるのが怖い、見られたくない、そのために、自分の中のごくごく一部の、しかも外側から自分の中に引きずり込んで持ってきただけの”病気の概念”をセラピストに相手にして欲しがってしまうのだ。
……だが、ある種みもふたもないことを言えば、その時点で、セラピストは、その方本人の落とし穴までを含め、すべて丸まま視て、診ている。

(整体などでも、原因や施術すべき場所は訴えられる患部とは別のところであると言うが、)本当の病巣というのは、表面的に見える”病気”とは全く別のところにあるのである。
もちろん、その”病気”から脱却するためのものも含めて。
そして、これは、クライアントさんという人間の一部分(病気)を”そのルールの中で”扱ったところで、見つけることはできない。

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