病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない

病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない

これまた、ヒポクラテスの言葉。

本当にその通りだ。
そして私はしょっちゅうこれでジレンマに陥る。

病気やら症状というのは、「病気」「症状」という概念に当て嵌めればそうなるのであって、そもそも病人の概念がなければ存在しない。

私は、自分自身がなぜやらどうしても時代の流行の流行り(敢えてこういう書き方をする)に乗って「病人」の概念、レッテルに当て嵌まりたい、それを自分のアイデンティティのひとつとすることで、そこからならまあ自分を受け容れていく気があるというクライアントにしか、「病気」「症状」という言葉は使わない。
「病人」の概念は、そもそも、外側の人が当人を当て嵌め決めるのではなくて、本人がその「名前・レッテル・殻」を持ちたいかどうかで決まるのだ。
(まあ…もともとは医者たちがこの概念を世に広めてしまったからかもしれないが)

ただ、「病人」という言葉(概念)は、もともと(本当にもともと)は、医者たちは、困りごとや大きな得手不得手のある当人たちの手助けとなるため、それこそ先日のヒポクラテスやシュバイツァーの表現を借りれば自己治癒力を発揮させる手助けとなるために、その「当事者」という意味で使っていたのではないか。
しかし今や、「病人」という言葉は、当事者たちが自分たちの立場、振り分け、割り当てが「病人(もっと言えば、”自己治癒力を発揮できない状態である人”)」であるがためのものとなっている。

それは病気だよ、疾患だよ、症状だよ、と言われることで安心する人は、やはり、どうやらそこで「自分の居場所」を得たような感覚になっているようだ。つまり、それをアイデンティティ(自分の肩書)としてしがみつくのである。
そもそもそこから抜け出す気がある人たちは、私からそういう言葉で示唆されそうになると大抵嫌がる、跳ねのける。もしくは、私やどこぞの医者にそんな言葉で表現されようが関係ない。
それでいてもセラピーは必要だと感じ私のもとに来られるクライアントさんには、私は「自己実現」「自分の可能性を拓く」お手伝いをするわけだ。
しかし、これは、あくまで、言い方(表現法)だけの違いである。

ついでに、これを「病気」「症状」にしがみついて「病気」として扱ってほしい人たちは、私たちはクライアントとすることができない。
なぜなら、「治療」と表現されることは、ドクターの仕事であるから。
いや、念のため語弊を払拭するために加えておくと(ややこしいので本当に最低限にとどめるが)実際、社会的にも医療的措置と位置付けられている対応(処置)が必要な場合は、当然ながら催眠療法士はその道の専門家に紹介する。これは催眠療法士がやっていい悪い以前に、今のクライアント、当人の人生にとって最適最善を考え勧めることが、これまた催眠療法士以前に対人支援に携わる者としての前提的義務であり倫理であるから。
自分のもとに来たからと自分のもとに留めてクライアントの選択肢の可能性や自由を奪うことを”しない”こと、こそが、対人支援者の非常に重要重大な責務、ある意味一番の仕事である。

ミルトン・エリクソンは、「私はプロの患者は診ないことにしている」というようなことを言ったらしいが、私が本当に常日頃、心底からその言葉のままに思っていたことだったので、あまりに痛快で吹き出してしまった。
そしてこれは単なる痛烈な言葉ではなく、真に患者のための対人支援のための言葉である。エリクソンが誰に言ったのかは知らないが(恐らく研究者仲間か弟子だろう)、敢えてこういう言い方を選んでしたのだろう。
プロの患者とは、つまり、「患者であることこそが自分のアイデンティティ、仕事」患者であることこそが”目的”であるクライアントのことだ。
これは私流の交流分析的な表現とはなるが、”クライアントでいるためにセラピストの元へ来る”ことが(当人は気付いていないのだが)自身の人生を不利に進めるための人生脚本を強化し推し進めていくための心理ゲームであるクライアントは、実はなかなかの割合でいる。
そして、そういう人たちはエリクソンの言葉を借りれば「プロのクライアント」である、クライアントであること自体が仕事であり、これを手放すわけにいかないために、どんなに神業的なセラピーを受けても「自分には効かない」ことを演ずるし、そうすればセラピストはクライアントの心理ゲームに乗って手伝って彼/彼女の自己否定感やら「どうせ私はどこに行っても治らないんだ」のようなラケット感情、人生脚本を強化してしまうことになる。セラピストが本末転倒、自殺幇助とも言えてしまうような、ピストルの引き金をひく手伝いとでも言えてしまうようなことが起きてしまうわけだ。エリクソンも交流分析はご存知だったようだが、これを見極めてこう言うのはまさに、と思う。
その上で、これは更に更に、そのクライアントのセラピー依存、セラピスト依存を作り出す。
極めつけには、麻薬依存やアルコール依存の人がだんだん量が増えても効かなくなるように、どんなセラピーも、やればやるほどどんどん効かなくなっていく。

ゆえに、もしこの脚本を持ったクライアントさんを相手にした場合、下手にセッションをすると逆効果でしかないため、いくら心理療法や催眠療法や大量のカウンセリングを望まれたとしても、見極めた上で、そこの脚本パターンを崩すことを意図したアプローチをする必要がある。
それでいて、この種の脚本を持ったクライアントさんは、実はなかなかの割合でいる。
(この脚本を見極められないセラピストやカウンセラーや、クライアントの顕在意識の言葉による主訴をまともに受けてしまったり脚本パターン崩しを目論むことのできないセラピスト・カウンセラーは、危険の極みでしかない……)

ただ、だからと言って、話を戻すが、「症状」「病気」という言葉を使われることで安心する人がそういう脚本を持った「プロの患者」とは限らない。
私はあくまでもそういうことは言っていない。
なぜなら、長年周りの人たちとどうにも違う状態がある、それで困っているけれどもそれに名前がないし説明できないがために同じ枠の中に括られてしまって苦しい思いをしてきた、「症状」のせいであって、自分自身のせいじゃなかったんだ、と安心する場合もあるからである。
しかし、この場合は、だからこそ症状から抜け出し、症状を捨て去り、病気から卒業しようというところに目的がある。「クライアントで在ること」に微塵も目的はないわけである。
(一応書いておくと、中には、どちらも両方持っているクライアントさんもいる。)

こういうクライアントさんには……というような方向にはこの記事では持って行くべきではない。
来年から、私は催眠療法資格取得可能講座と並行して、カウンセリングのやり方や、交流分析やNLPを使った自分自身の心身の整え方、勉強会研究会など開催して行く予定であるので、そちらに回す。

パラケルススは
「人はみずからがこうあると思い描けば、そのようになるのである。人が今あるその姿は、みずからがそうあると思い描いたものなのである 」
といい(この言葉はエリクソンも良く使っていたらしい)、
ウィリアム・ジェームズは
「人間には、その人がなりたいようになる性質がある」といったが、

まさに、人は、必ず自分の目的を達成するようにできている。
この時困るとすれば、何が問題となるか。
その「自分の目的」を自分でわからないまま、勝手に外側のせいでこうなっている動かされているかのような気になってしまっていることなのだ。

実は自分で決めた自分の目的(行こうとしているところとそのために選んでいる道筋)をちゃんと自覚すれば、ああ、やはり私の行くところはそこではなかった、とわかれば(というより潜在意識の中にそもそもあったはずの本来の使命に気付き繋がれば)、軌道修正できる。

そして、本来セラピスト・対人支援者というのは、そこに寄り添い手伝う(サービスやセラピーの押し付けではなく本人の自己治癒力の発揮)ことが仕事なわけなのだから。

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