音楽も心理カウンセリングーこの歴史上のすべては「体感」から始まる
実家で少々面白い話を。
音楽家ではないが趣味としてギターや笛などを演奏する父より、その場にいた音楽家である母と私に向けて、「弱起(アウフタクト)の曲と通常の曲はどうやって区別するのか」と聞かれた。
弱起(アウフタクト)とは1拍目からメロディーが始まるのではなく、その少し前の要するに3拍目や4拍目から始まる曲のことを言う。その説明はまあいいのだが、そこで思うことが、
曲の「1拍目」を感じること、
曲の1拍目という概念、というのは、実は非常に説明が難しいものだ。
2拍子、3拍子、4拍子、6拍子などの単純な曲ならばまだ1拍目は実際に強拍として表現されるし、ある程度慣れればわかるようにはなってくるものだが、アラビアの曲の10拍子(サマーイ)などとなってくると、今がいったい何拍目かどころか、1拍目をとれないので一度落ちたらもう数えられない。
いや、そもそもアラビアの方へ行くと、拍など非常に複雑であり、何拍子何十拍子の曲さえ存在するという。つまり、拍という概念は、元を辿ればあってないようなものなのだ。
何が言いたいか。これは音楽だけでなく、心理学や科学などでもそうだと言いたいのだが、すべては、体感が一番もとにある。
体感ありきで、概念が生まれ(人間の顕在意識たちによって概念が作り出され)、それで理論が体系化されていく。
実際アラビアの音楽家たちは、何十拍子の曲であろうが1拍目はとれる(感じる)のかもしれない。
我々の原始的体感が鈍くなっているだけで。
そして、拍子の話から派生して、
「オクターヴの概念」も、教えることは非常に難しいと感じている。
子供のレッスンなどで、例えばオクターヴのド(真ん中のドとオクターヴ上のドなど)を同時に弾いて、同じ音階であると認識させようとしたり、一緒に弾きながら歌ってみて「ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し、ど…ほら、またドに戻るでしょう」などと教えようとするとき。
そもそも音階(ドレミ)や音の高低などの概念がまだない子供には、真ん中のドとオクターヴ上のドが同じ音であるとは感じられない。感じられるわけがない、実際違う音なのだ。子供の感覚の方が正しい。
では、どーーして同じ「ド」と呼ばれる音になるのか。
周波数がちょうど半分になるからだ。
ピタゴラスの理論で言えば。一本の長い弦を弾いて鳴らしてみて、それをぴったり半分に折って鳴らしてみれば、周波数が半分になってオクターヴ上の「同じ音階と呼ばれる」音が出る。
そんなこと子供に説明して理解できるわけがない。
では、どうして、半分の周波数だったら「同じ”ド”」なのか?
これは、やはりおおもとには「体感」がある。
体感を抜きにして結局説明することはできなくなってくる。
つまり、「共鳴」するからなのだ。
例えば長い弦を鳴らして、その隣で、その丁度半分の長さの弦を弾いて鳴らしてみたら、その2つの音は、「共鳴」するのだ。
では「共鳴」とは何か。言葉で言えば「周波数が揃う(うなりがない)」ことなのだが、それを人間は当然耳でうなりを数えて感じているわけではない(調律師はそれをやる場合があるが……)。ではどうしてわかるのか。
体感だ。「心地良い」のだ。同時に鳴らして。
その「心地良さ」から、協和音、不協和音という概念が、音楽史上、育ってきたのだ。
しかしながら。
今の子どもに教えようとするとき、例えば真ん中のドとオクターヴ上のドを一緒に鳴らしたとき、真ん中のドとオクターヴ上のレ(一音わざとズラして)を一緒に鳴らしたとき、鳴らし比べて、心地良さという体感で教えようとしたとき、これも通用しない子が多い。
母の感覚では、彼女が若い頃に子供に教えていたときは、そんなこともあまりなかったような様子だ。
今の子どもは、もはやあらゆる爆音(文明によって作り上げられてきた大きな物が出す音)の散乱する街中で、また、ゲームやら電子音やらに日常生活を囲まれ浸る中で、協和音と不協和音の区別もなく、不協和音に慣れ切ってしまって、身体がもはや危機感を感じられなくなってしまっているのではなかろうか。
踏切の音などは、わざとテンション(隣り合った音)を同時に鳴らす不協和音で警戒させるよう作られているらしいが(私の知る限り、テンションではない踏切音もある気がするが)、それは昔は身体がびくっとなるような音の組み合わせで、しかも不協和音はうなりが強いので他の雑音よりも浮かび突出して聞こえる、……が、今や、東京の街中の踏切の音などは、もう周りのあらゆる音にかき消されている。今の都心の子どもたちなどは、もはや当たり前に散らばっているような音のひとつとなってしまっていて、踏切音に特に気付きもしないのではないだろうか。
それどころか、現代の子どもや若い人の中には、ゲームや街中や現代音楽のわざわざの強烈な不協和音の部分を特に「気に入っている、好き、心地が良い」と感じている人たちすらいる。
しかしながら…これは私の(どちらも)専門である心理にも繋がってくる話なのだが。
ヒトの身体というのは、それでも当然、音は聞き分けている。
そして、うなり(不協和)を感じる体感はある。
ちなみに、これはもし聴覚障害と呼ばれるような状態を持っておられる方などでも同じで…
例え先天性・後天性どちらにしても、耳の聞こえない人でも例え「耳」でつまり脳として「音」という概念解釈で捉え理解するものではなくとも、耳ではまるで聞こえていなくとも、妙なうなりのある音や非常に大きな音などを聴いたとき、身体や頭がくらりとしたり、頭重感や頭痛、だるさなどを感じたり、それで寝込んでしまうような場合もある。「聞こえるのは音(と脳が解釈する概念のもの)」と多くの人は思い込んでしまっているのだが、「身体(細胞)」は外界を音波や調和不調和をも”聴いて”いるのだ。
私は、以前から記事や私の受講生さん・クライアントさんたちに、
日本の近代化の中(ここ100年ほど)での日本人の”骨格”の変化(歪み)が進んでいると考えられること、についてや、
身体(骨格)の歪みは自分軸の歪みであり、それは心(精神面)でも完全にイコールで繋がる形で連動して歪みを引き起こし、「自分軸」を手放す生き苦しい(息苦しい)生き方しかできなくなっていってしまうことになっていっている、ということや、
身体の細胞は周波数(音)に反応・共鳴し影響を受け、形を変える(例えば声の適切な周波数でがん細胞まで破壊されるようなことも起こり得る)というような、
そんな話をしている。
つまり、不協和音を心地良く感じてしまっている現代人の骨格や細胞は、いわば不協和音のうなりの周波数に適応しようと自分をズレさせてズレさせて今ある形なのかもしれないわけだ。
しかし、これは猫や犬や鳥、魚、植物など他の動物たちでも同じだが、動物というのは、「協和音」を自然界の自然な音、美しい音、安心する健やかな音と感じるようにできている。
これが崩れてきているのは人間だけである。
セラピストの視点から見ても、不協和音に「(本人なりの)居心地の良さ」を感じている、と思い込んでいる人には、骨格や精神(認知)のズレや、抑圧(トラウマ)、自分軸にフタをして自己不一致の状態で本人の中(顕在意識と潜在意識)が足並みや方向性がちぐはぐしている場合が非常に多い。
かなり本人自身に負担をかけている。
私は子供のピアノのレッスンをしているとき、やはり最初は協和音と不協和音の違いがわからない子が多く、この時に、心や人生上の問題も見ると、親にやらされていたり、親の反応を怖がって気にしていたり、親のためにと一生懸命になっていたり、学校で友達や先生とのことで問題を抱えていたり、そんなものがある。
まあ、ない方が少ないかもしれないが、いずれにしてもこの時、一度子供に、「体感を感じる」方向へ持っていく。
そして、協和音と不協和音を聴かせて、ただただ純粋に感想を聞いたり反応を引き出していくと、最初はわからなかった子も、だんだん、不協和音の方を「何か濁った感じがする」だとか「身体がびりっと来る」など、不協和音に違和感を感じ始め、協和音の方に安心感を感じ始める。
そして、更には協和音に安心感を感じ始めると、その子はレッスンの中での態度も、だんだんと「自分のやりたい」や、「自分自身の素直な反応」が出るようになってくる。身体も柔らかくなっていく。音も表情豊かになっていく。
…これはまったくの余談なのだが、
そしてこれはただの言葉の表現かもわからないが、
ピタゴラスは「宇宙は壮大な音楽(ハーモニー)が鳴り響いている」と言ったらしい。
私は、きっと実際そうなのだろうと思う。
人は、天使の羽根をあまりに大きすぎてみることができないという(特にアラビアの方では古来よりそう言われているようだ)。
実際ひとの五感は、自分の概念を超えるものに関してはデータ自体受信していない(見ていない・聞いていない・感じていない)ことにしてしまい、感知しない。日々の本当に日常的なところでも、それはたくさんある。
人の五感と脳は一日に外界から受ける刺激の1割も認知していない(取捨選択してごく一部しか脳に届けていない上、脳では別翻訳独自解釈で受け取っている)。
まあここに関しては記事内で深く説明しないが、
そしてここからも私個人の言語表現でしかないが、
私は、宇宙は実際壮大な音楽が鳴っていると信じている。
そして、この調和した確固たる響きこそが、すべてを包み込んでいる。
人の「耳」には、それはあまりに大きすぎて聞こえない。
しかし、身体は感じている。
この調和音、壮大な協和音を感じているから、「生命」は生まれながらに、自分が受け止められて自由に動いて良いことを知っているのだ。
そしてそれと同時に、生まれながら、いや生まれる前から聞き続け包まれ続けているので、もはやあまりに当たり前過ぎて「感知」することもできない。
これ以上の(そういう比較表現概念自体がもはやおかしく感じるが)安定があろうか。
これこそが、真に我々が受け止められている宇宙そのものであり、愛そのものといえる。
ただしかし、少し別の角度から言えば、これは、実は感じることもできる。
深い深い真髄の世界、宇宙意識、潜在意識、自分自身そのものと繋がれば、その、これ以上ない協和音を感じ、その繋がりを感じることができる。
…もっとちなむと…実は、これを、まあこれのごくごくごくごく一部分、ではあるが…「耳」「全身」でも、”聴く”ことができるための方法もある。
私はごく何名か、クライアントさんや受講生さんにこれを、実際の理論も方法もお伝えしたことがあるが……具体的には物凄く単純簡単なのに、なんだかんだ、なぜだか「無視」してやらなくなったり、すぐに習っていないつもりになってしまったり(本当の安心安全、魂、宇宙と繋がる術なのだと意識下で察知し、否認してフタをしてしまうのかもしれない…)、する割合が大変多い。
もし、本当に知りたい方は、私としては一切出し惜しみするものではないので…寧ろ世界中の人が全員これを知りさえすれば安心安全平和建設的な世界になるのに、と切に思っているくらいなので…私のところに、おいでください。