日常記録/身体が言うことを聞かないと意識が感じる時は、実は意識側の道行きを身体が正そうとしてくれている、ということ

ここ最近、眼痛と頭痛が強く頻繁で、日常の視機能の調子はよろしくはないと言わざるを得ない。

手掛けている資料(教科書)作りもはかどらず、日々少しずつ読み進めている研究資料や本も大分長いこと1ページも進んでいない。事務作業の類は少し少し苦痛が和らぐ隙を狙う状態だが、その隙もほとんどない。完全に閉眼状態時は、楽器の練習(幸い、新譜も即座に暗譜する癖がついてきている)か、瞑想くらいしかできることがない。調理など家事の類は変わらずするけれども(元々その訓練は独自にできていた上、このシェアハウス内では私が行っていても不審のないよう環境を整えてくることができたことは、本当にありがたい)。
そして、最近はシェアハウス内の同居人たちが午前中に室内にいることが多いので、午前中の人がいる時に(しかももしかしたら寝ているか寝起きすぐかもしれない時に)これしかできないからと楽器の音を出すのもなかなか気が引ける。
そのため、結局、昨日も今日も、午前中、催眠療法のセッション用に仕入れた折り畳みのリクライニングチェアを開き、まるで文字通り養生をしている。

しかし、もしかしたら、今は敢えてその時期なのかもしれないとも思う。
身体の内側を視る、感じる、身体の声を聴く。
これは、クライアントとのセッションの中では重きを置いている割に、視機能に負担をかけていくらでも出てくる事務作業や資料の読み込み・研究を進めようとしていれば、どうしてもつい後回しになりがちになり、遠のいて来る。
しかも、その身体を感じる、内側を視るということを伝える仕事をしているだけに、まさにそのための研究を深めねばとつい思ってしまうがために。
医者の不養生とは、こういうところにも現れるわけか。と、ふと気付く。

この時間を使えば資料作りも研究もできるはずなのに…とつい思う。が、できない状態に陥っているからこうしている。ならばその分、自分の器の身体の内側で観察研究することで進める。
寧ろそちらをせよということ。
”しなければ”とつい自覚よりも下で思ってしまっていることに気付き、本質を視ろ、立ち返れということ。
表面的な形としての資料作りなどが進まない分は、あとで挽回する、できるように持っていく。
できなくなっている、のではなく、今やるべきことがあるのにそれを見ようとせず、つい表面的な事象に呑まれて効率が悪くなることをしようとしている。そして、それを教えてくれている器(身体)がある。

これに気付き、身体の声にじっくりと耳を傾けていると、全身の骨格や筋肉が自分たちで本来の場所へ戻っていこうとぐんぐんと動いていることを感じる。そして、不思議なことに気付くといつの間にか苦痛が和らぎ、少し器の視機能を動かすことができるかなという状態に移行する。すると、与えられた時間を無駄にせず、しかも効率良く、できることをする、ということができるようになる。

ついでに、催眠セッション用に仕入れたリクライニングチェアにしても、私は普段オンラインセッションが現在ほとんどであり、これから先、少しずつ、使う予定と見込みが増えてきている。
そんな中で、自分でまず使うことによって、安全性や良い角度などの確認・研究にもなり、実際クライアントが使う前に埃だらけになっているという事態を防ぐことができているということも、身体(無意識)のなかなか粋な計らいだと思う。

さて、それでは、前回何をどこまで書いたかすら朧げな、資料の続きを、手掛けようと思う。

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