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結局「反面教師」にするか「お手本」にするかの二択だから。

極論、出会う人は自分にとっての「反面教師」か「お手本」になりうるのかなと。


中学生の時に初めて「反面教師」という言葉を知りました。
まあ、ちょっと遅いか、妥当かぐらいの知識です。

なんかかっこいい響きで、見栄張りの時期だから、このワードを使いたくなって、むやみやたらに使っていたような・・・。
可愛いらしい時期です。


でもどうしても出会う人の幅が広がっていくにつれて、
「反面教師」を自分事に考えるようになるタイミングが多く訪れたような気がします。
それと同時に、自分が得たい、自分も真似してみたい「お手本」となる色んな人の色んな部分も見つかるようになってきました。

結局、自分と関わってくれる人は
私に「反面教師」として影響を及ぼすか「お手本」として影響を及ぼすか。その二択だなと。

一番私にダイレクトに「反面教師」「お手本」の両方となる指針を与え続けてくれているのは紛れもなく家族。特に両親です。

自分が掛けてもらえて嬉しかった言葉も、絶対に真似したくない言動も、毎日積み重なっていきます。

例えば食事を自発的に「おいしい」と言わない父。
私は作った料理にコメントがないのは違うのではないか、と感じているため、父のこの言動はまさしく「反面教師」として、私は絶対「おいしい」であったり、コメントか何かを口にします。


私の選択を応援してくれる母。絵や字も大げさに褒めてくれて、揺るがない最大の味方がいつもそばにいる安心感が、私に能動的なやる気を引き起こしてくれました。

でも誰かと比較して褒めるのはあまり好きじゃなかった。
結果だけ見て褒めてくれるよりも、頑張っていた時間を一番見て欲しいとは思う。
一つの関わりだけで「お手本」「反面教師」どちらも混在しているのかなと。


出会った人との中に何かしらの思い出があるのなら、それは感情が動いたときであると思っています。
もちろんそれはプラスの感情、マイナスの感情の両方です。

この行動が素敵だった、私は嬉しかった。
それはまさに私にとっての「お手本」に繋がっていく言動。

何か鼻につくことがあった、今の発言はあの人を傷つけかねないものだった。これはまさに私にとっての「反面教師」となりうる言動。

出会いが多いほど、そりゃ気づかなかった角度からの新しいプラスの感情、マイナスの感情が自分の中に流入してきます。
出会うことが学びとなり、自分の足りていない部分への気づき、大げさに言えば道しるべになるかと。


もしかしたら、私も誰かの「お手本」になった瞬間があるのかもしれないけれど、
投げやりですが、どうせ私だって、色んな人の反面教師になってきたのだろうし、これからも誰かにとっての反面教師になるのだろうから仕方ない。


それでも、
”来世は自分を反面教師にして生きていきたい。”

と思うような生き方をしたくないから、

色んな人の「お手本」と「反面教師」を吸収して、
「お手本」を吸い取る力。
「反面教師」として学びとる力。

それをまた人と出会うことで蓄えていきたいと思います。


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