見出し画像

「多様性」の意識変化の真っ最中を生きる者たち。

性についての知識が世間的に広がり、意識が変わろうとしている時代の今を生きています。

小学生の時、
女子は鍵盤ハーモニカと絵の具セットの色がピンク。
男子は鍵盤ハーモニカと絵の具セットの色が青。
と決まっていました。

出席番号は男子が先、その後に女子。
席替えは男子、女子が一ペアで隣の席。

それなのに、道徳の授業で性別について学んだ記憶があります。
男の子がピンク色の折り紙を選んだとき
「男の子なのにピンクだ」
女の子が黒色のランドセルを背負っているとき
「女の子なのに黒色なんておかしい」

これはだめだよね。男の子だから、女の子だからっていうのはおかしいよね。
というお話を道徳の教科書で読み、先生が45分授業しました。
小学校1年生の時です。


少しづつ意識を変化させていかなくてはいけない、という時代の狭間だったのでしょうか。
集団行動の中にはっきりと男、女、の区切りがありながら、区切りをつけないことを学ぶ、というなんとも矛盾だらけの環境といえました。


中学生になり、生徒会長が制服の紹介をする場面がありました。
男性の生徒会長があえて、女性の制服姿で登場し、「女装する」ことで、大いに笑いをとり、大いに盛り上がっていました。

私が中学生の時代は、制服の自由はありませんでした。
必ず男性は男性用の学ランを着て、
女性はリボンのついたセーラー服を着ていました。

高校生になり、LGBTについては学ぶ機会、耳にする機会が増えたと思います。
生徒会のイベントで女装をすることは禁止でした。


私の人脈が狭いから、あまり直接的に性に悩む身近な人に出会っていません。
女の友達に嫉妬した、と打ち明ける女友達が1人いたぐらいです。


恋愛真っ盛りの10代だから余計に、意識したくなくても意識することが増え、周りとの違いに
「自分は・・・?」
と考えることが増えました。

実は多くの人が一人でひっそり考えている。と思います。
特に、私のように、一般的な人と比べて
(好きが分からない。)
と、恋愛の感覚に疎い人は少なからずいると思いますが、なおさら考えるところが多いのかなと思います。

私は人を好きになることがない種類の人間か、もしくは男性、女性どちらも恋愛対象に入るのか。
と考えたことはもちろんあります。

結果として、私はたまたま”好き”を感じるタイミングがあったから、
人を好きにはなるらしい。
ということが分かり、
今のところ女性を恋愛対象として好きになったことはないから、
今の自分は異性愛者らしい。
ということが分かりました。

友達と話していても、多くの友達が一度振り返って自分の性について考えています。
私は男性女性どちらも恋愛対象に入るのか。
「めっちゃ考えたことある」
「私も思った」

少なくとも私の周りにでさえ、思うところがある人が多いです。



でも、テレビを見ていたら、親は
「あの人オネエちゃうか。」
「あの人ちょっと変やな。」

普通に会話中に発言として聞くことがあります。

集団生活を送る歳の頃、
性に悩みを持つ人が表だって公表するにはあまりにも理解のない時代、
一般的な知識として性のあり方が浸透していなさすぎる時代を、
生きてきたのだと思います。

私が性的マイノリティであったとき、
私の親は私を受け入れてくれるかは分からないな。
もしかしたら、偏見のフィルターを通して私のことを見るようになるのかもしれないな。
と正直思いました。

自分を当事者として考えても、親に堂々と公表することさえも憚られてしまうのか、と思うと落胆。
の一言に尽きます。


ちょうど私は、男性、女性に縛られない社会にするために多くの意識、事柄が変わっていく、その変化の真っ最中の時代に、集団生活を送ることができたうちの一人であると考えています。

小学生の時、出席番号が男女で別々であったとしても、その時は
出席番号は”そういうもの”

としか捉えられず、そこになんの疑問も不信もありませんでした。

思春期を経て中学、高校を過ごし、導かれた教育によってやっと知識を持ち、
やっと昔の疑問を抱くことができるのです。


性への偏見がない環境が、それが本来の環境ですが、
偏見のない時代しか知らないと、どういう些細なことで、見落としそうなことで「性」を縛り付けていたのかに気がつけないかもしれません。
知らないうちに、また縛り付ける要因が生まれ、そこに生きづらさを抱く人が出てくる可能性もあります。

しかし「性」への理解が進んでいない時代で人生の大半を生きてきた場合、囲われた常識の中に捕われ、無意識の中で相手を傷つける言動が生じる場合があるのかなと思っています。


私が過ごした学生時代も、不完全で縛られていた環境であることは間違いないですが、変化を体感できた時代、これはある意味、様々な考え方の立場がいることを理解する上でラッキーだったのかもしれないと感じています。

そして偏見に固められたにも関わらず、それが普通であった日常に再び引きずり込まれないようにするために、重要な時代を担っている世代なのだと思います。



長くなりましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
また、自分の考えが深くなり多くのことを理解できるようになったとき、この記事を再筆できたらと思っています。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?