森嶋 拓

まだ小さい自分の子供たちの為に向けた投稿です。 自分がもし不慮の事故か何かあったら、自…

森嶋 拓

まだ小さい自分の子供たちの為に向けた投稿です。 自分がもし不慮の事故か何かあったら、自分がどういう人間だったか伝えられないまま別れるのは残念すぎるので、時間のある時に少しずつ書いていこうと思ってはいます。 でもなかなか進みませんね...苦笑

最近の記事

18年ぶりに息子に会う 2021年

2歳の時に別れた息子と18年ぶりに会ったら、20歳になっていました。 小さかった子が自分よりも身長が高くなっていて。 会うまではそんなに緊張もしていなかったし、割と楽に構えていたんですけど、会った瞬間に電気が走ったというか喋られなくなりまして。 それでも最初はテンション低めではあるもののそれなりに話せていたんですけど、なんかふとした瞬間に(油断した瞬間に?)感情が乱れまくってすっごい涙がでてきました。 別れたことは後悔はしていないし、息子に対して罪悪感を強く持っていたわけ

    • とにかく肯定し、肝心なことは背中で見せることの重要性

      僕のダメだったことの一つに、「こうすればいいじゃん」「こうしたら?」って言ってしまうってのがずっとありました。 若くして多くの人に「先生」みたいに持ち上げられたことが影響しているのかもしれないですけど、それなりに自分がしてきたことには自信があって。 その自信からか、自分の成功パターンを偉そうに後輩に押し付けてしまうところがあったんですよね、今もまだ少し残っているんですが。 でも、これって僕がやられたら一番嫌なことなんです。 本当に尊敬している人、自分には叶わない人、圧倒的

      • 「僕らは同じ夢をみる」飛生芸術祭における活動 2011年から2020年

        北海道白老町旧飛生地区で開催されている「飛生芸術祭」に2011年頃から関わり続けています。 最初は飛生芸術祭のオープニングイベントであり、1泊2日24時間に渡るキャンプイベント「TOBIU CAMP」のダンサー/パフォーマーのキャスティング・演出を担当しました。 2年目からは経緯は忘れましたが、運営委員としても関わり続けています。 この飛生芸術祭の初年度から繰り返しつけられているタイトルが「僕らは同じ夢をみる」であります。 Photograph Noriko Takuma

        • 恐怖の?ダンスバトル 17歳くらいから30歳くらいまで

          僕が初めてダンスバトルに出場したのは、高校3年生くらいの頃だと思います。 最初は同じクルーの仲間たちと一緒にデビューしたんですよね、みんなで出てみようぜ!みたいな感じで。 確か仲間たちはことごとく1回戦で負けて、僕も格上のダンサーとあたることになって当たって砕けろみたいな感じで。 負けて当たり前なので緊張はしていなかったんですけど、流れを変えてやろうと力んで、少し変なテンションにはなっていたと思うんですよね。 初めてのバトルが始まり、僕がまず先に前に出て、いきなりハルクホ

        18年ぶりに息子に会う 2021年

        • とにかく肯定し、肝心なことは背中で見せることの重要性

        • 「僕らは同じ夢をみる」飛生芸術祭における活動 2011年から2020年

        • 恐怖の?ダンスバトル 17歳くらいから30歳くらいまで

          ナウ 2020年10月 40歳

          今年は新型コロナウイルスが猛威をふるいました。 影響を受けまくって、僕も大いにふるえました。 これまでnoteに過去のことを書き綴っていたのですが、今のことも書きたくなってきたので縛りを気にせず自由に行動し始めたいと思います。 SNSとの連動なんかもしないでひっそりと書いていたんですけど、FACEBOOKはまた長文書きにくくなったし、SNSよりnoteの方が文章を書きやすいので、もうこっちをメインにしてしまおうかと思っています。 僕のメインです。今日からこちらが。 今年

          ナウ 2020年10月 40歳

          水曜日の二時間目は山登り 1988年 春 8歳

          父は東京出身、母は北海道出身で、幼いころは家族全員で東京に住んでいました。 しかし、兄の喘息がなかなか悪かったそうで、空気の良いところで育てようと兄だけが祖父母の家に住むことになりました。 その後、僕と母が北海道に移動して、姉も来るようになり、父だけ単身赴任で東京に残るような形になりました。 祖父母の家は小樽にあり、北海道に来たばかりのときはみんなでそこに住まわせてもらっていました。 そして小学3年生の時に、札幌に引っ越すことになりました。 転校した先は、盤渓小学校という

          水曜日の二時間目は山登り 1988年 春 8歳

          Fableとコンカリーニョと虹色Chaos 2006年 25歳

          ダンスを教えまくっていた僕は、ある日レッスンのインストラクターという仕事に疲れて別の道を模索するようになりました。 家業の新事業を担当させてもらいながら、自分でイベントなど主催するようになっていきました。 イベントの主催に関しては、この時期が初めてではありません。 自分のダンススタジオの発表会、小樽のダンススクールの発表会的イベント、小規模の舞台公演などは昔から手掛けていました。 ですが、それはあくまでも「自分が踊るため」「生徒に場を与えるため」であって、イベント自体が作品

          Fableとコンカリーニョと虹色Chaos 2006年 25歳

          先生業に疲れ果てる 2004年 冬 25歳

          ストリートダンスはもともとはちょっぴりアウトローな人が多い世界でしたが、大学にダンスサークルができるようになり、中学や高校にもダンス部ができて、こどもの生徒までが増えてくると、みるみる内に健全なものになっていきました。 スポーツクラブなどでHIPHOPを学べることが少しずつ普通になったり、様々なところで触れる機会が増えていきました。 そんなブーム?に乗っかるように、僕は19歳からダンスのインストラクターのキャリアをスタートし、この頃には様々な場所で先生として教えるようにな

          先生業に疲れ果てる 2004年 冬 25歳

          踊りはじめる高校生 1996年 夏 16歳

          中学生時代に香港で2年半を過ごした僕は、高校入学のタイミングで札幌に帰ってきました。 高校2年生になり、あまり覚えていないのですがバスケ部に入ってそれなりに楽しく学校生活を送っていたような気がします。 ある日、テレビのニュースでDJ HONDAさんという方が世界の有名なDJの大会で優勝したということを知りました。 この時がHIPHOPとの出会い・・・と後に語っていた時期もあったのですが、よくよく考えたら香港に住んでいた時によくMTVを見ていたのでKris Kross、TL

          踊りはじめる高校生 1996年 夏 16歳

          ファーストサマー・イン・フィリピン 1992年 夏 12歳

          日本の学校は4月に始まって3月に終わりますが、海外の学校は6月に終わって9月に始まるところが多いのではないでしょうか。 4月後半に香港のインターナショナルスクールに編入した僕は、しばらくは学校の授業で使われている英語が全く理解できず、ただ空気のように過ごしていました。 そうこうしながらも1か月ちょっと経ち、あっという間に夏休みに突入です。 「初めて香港で迎える夏に、フィリピンに一人でホームステイをする」というのが我が家の通過儀礼のようになっていて、姉が香港に来たばかりのとき

          ファーストサマー・イン・フィリピン 1992年 夏 12歳

          香港でインターナショナルスクールへ 1992年 春 12歳

          僕が香港にやってきたのは、小学校卒業のタイミングでした。 中国返還前の香港で、まだイギリスの植民地だった時代です。 香港には日本人学校という、日本と変わらない学校がありました。 ただ、僕は姉がインターナショナルスクールに在学していたことや、何となくそっちの方が良いのかなと安易に考え、姉と同じイギリス系のインターナショナルスクールに通うことにしました。 新しい学校生活は、それまで日本でぬくぬくと育ってきた僕にはカルチャーショックの連続でした。 初めて通学した日のことは、今で

          香港でインターナショナルスクールへ 1992年 春 12歳

          はじめに

          40歳を機に「自分の人生を遺すこと」を目的に、プライベートな文章をnoteにアップしていくことにしました。 動機は、自分自身の年齢が徐々に父が亡くなった年齢(46歳)に近くなり、そろそろ遺すことを考えていかないといけないなと思ったことです。 いつ何が起きるかわからないのが人生ですから、自分に何かあったときに子供達にメッセージを遺しておければと考えていました。 最初の子は自分が2歳の時に別れてしまって、そのあとはお互いの人生を知らないですし、いま同居している子はまだ幼く、十分

          はじめに